切支丹禁制の高札(大坂・北河内郡東村)

 この高札は正徳元(1711)年5月に江戸幕府の奉行から出された切支丹禁制の高札です。幕府が出した切支丹禁制の高札の内、内容としては最後のものになります。   この高札は傷みが激しく、また補修の後が見られる事から慶応4年(1868)4月に明治新政府が新たに切支丹禁制の高札を出すまでの157年間、高札場に掲示されたものと思われます。
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高札表面 大阪府守口市東町(河内国北河内郡東村) (高494mm幅981mm奥行88mm板厚34mm)

 表面が長く雨風に晒された為に書かれた墨が失われ、文字の輪郭だけが残されていますが、判読は可能です。
 それによると、御禁制の切支丹を捕らえた場合の賞金として
ばてれん(司祭) 銀500枚
いるまん(修道士)銀300枚
たちかえり      同じ
(棄教後キリシタンに戻った者)
同宿(協力者)   銀50枚
が支払われると記されています。
 因みに銀1枚は160gの重さで、これは庶民の約一ヶ月分の賃金に相当し、非常に高額な賞金である事が分かります。
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表面拡大

 左画面は表面左下にある領主名で、支配者が代わる毎に前任者名だけを削って新しく書き換えたようです。
 右画面は裏面右下の東村の文字です。また、この高札は前所有者が大阪府高槻市で第二次大戦前に求めたものです。
 これらの事から、この高札は河内三郡に慶応元年から4年まで7000石の領地を持っていた幕府直参旗本の永井左門が北河内郡東村(現在の大阪府守口市東町)の高札場に掲示したと推定されます。
 ちなみに、永井左門家は他の永井一門と同様に江戸信濃町に上屋敷があり、町名も本家筋の大名永井信濃守の上屋敷があった事に由来します。
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 裏面には縦木が添えられて補強されており、高札としては珍しい形状です。(ただ、裏面に付けられた木ネジとワイヤーは状態から明らかに後世のものです。)  また、上部の傘の部分に当たる2枚の木材は非常に傷みが少ない事から、高札を作った当初からものではなく、後に交換されたと思われます。
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裏面全体

注:高札場として推定した守口市の北の高槻市や茨木市には江戸時代を通して隠れキリシタンがいた事は有名です。

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