| 西暦 | 元号 | 出 来 事 | |
| 1498 | 明応8 | ![]() |
ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到着し、インド航路の発見する。
(ヴァスコ・ダ・ガマの棺のあるポルトガルの首都リスボンの聖マリア聖堂) |
| 1517 | 永正3 | ![]() |
ルターによる宗教改革始まる。 (マルチン・ルターの肖像) |
| 1534 | 天文3 | ![]() |
イグナチオ・ロヨラを中心にフランシスコ・ザビエルらモンマルトルの聖堂で結盟しイエズス会創立。
(パリのモンマルトルのサクレクール教会) |
| 1540 | 天文9 | 反宗教改革運動を進める教皇パウロ3世が、イエズス会の創設を正式に許可。 | |
| 1542 | 天文11 | ![]() |
ザビエルがインドのゴアに到着する。 (ザビエルの遺体のあるゴアのボム・ジェズ・バシリカ教会) |
| 1543 | 天文12 | ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。(西洋人の日本発見) (上、伝来した鉄砲 下、国産化された種子島銃) |
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| 1544 | 天文13 | ポルトガル人が鹿児島に来航して貿易を求める。 (南蛮図屏風に描かれたポルトガル人 部分 宮内庁蔵) |
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| 1547 | 天文16 | ザビエルがマレーのマラッカで日本人のヤジロウに会い、日本行きを決意する。 (ヤジロー像 鹿児島市内 ザビエル記念公園) |
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| 1548 | 天文17 | 弥次郎(ヤジロー)が日本人として初めて洗礼を受け、サンタ・フェのパウロと洗礼名を与えられる。 | |
| 1549 | 天文18 | ザビエルらが鹿児島に到着、領主島津貴久と会見し、布教の自由を与えられる。(キリスト教伝来) (鹿児島市内のザビエル教会の前のザビエルの記念碑) |
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| 1550 | 天文19 | ![]() |
平戸にポルトガル船が来航する。 ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行い、約100人が入信する。 その後、ザビエルは博多を経て山口へ向かい、領主大内義隆と会見。(フランシスコ・ザビエルの肖像) |
| 1551 | 天文20 | ザビエルは京都に到着するが、天皇・将軍と会見出来ず、平戸・山口へ引き返す。 ザビエルは大分に到着し、領主大友宗麟と会見し、宗麟の使者と共にゴアへの帰途に就く。 当時のキリシタンは700名余となる。(山口の領主大内義隆の肖像・この年に家臣の反乱で自害) |
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| 1552 | 天文21 | 山口の大内義長がイエズス会のトルレスに教会の建設を許可する。 アルメイダ(のちにイエズス会)が商人として平戸に来航する。 ザビエルが中国マカオの沖の上川(サンシャン)島で病没(46歳)。 |
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| 1557 | 弘治3 | 平戸にポルトガル船2隻が来航する。 (当時の南蛮船 南蛮人渡来屏風) |
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| 1558 | 永禄元 | ![]() |
イエズス会宣教師ヴィエラら3人が京都に入り宣教を開始する。 ヴィエラは将軍足利義輝に謁見する。 (第14代室町将軍足利義輝の肖像) |
| 1559 | 永禄2 | ![]() |
平戸の領主松浦隆信は教会を破壊しキリシタンを迫害する。 (平戸市内の松浦家代々の墓地に立つ隆信の墓) |
| 1560 | 永禄3 | 足利幕府がイエズス会のヴィエラに布教を許す。 | |
| 1562 | 永禄5 | 大村藩主純忠がポルトガル船の為、横瀬浦(長崎県西海町)に港を開き、トルレスが教会を建設する。 有馬藩主義直はイエズス会修道士ルアルメイダを招き、口之津(長崎県南高来郡)を貿易港として開く。 アルメイダは島原、口之津などで布教を行い、島原半島にキリスト教が広まる。 |
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| 1563 | 永禄6 | 平戸にポルトガル船2隻が入港し、隆信はフロイスに教会の再建を許可する。(フロイスの像) 長崎の領主大村純忠が洗礼を受けキリシタンとなり、同地の横瀬浦に教会が建つ。 有馬義貞がアルメイダに島原半島の口之津での宣教を許可し、同地に教会が建つ。 ヴィエラらは京都以外の畿内に5つの教会を建て、この年、高山右近も洗礼を受ける。 |
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| 1564 | 永禄7 | 大分の宗麟がアルメイダの要請に答えトルレスに三か条の制札を交付して布教を許可する。 (出家姿の大友宗麟の肖像) |
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| 1565 | 永禄8 | イエズス会の宣教師ビレラとフロイスが、京都の幕府を訪れて将軍足利義輝に新年を祝う。
松永久秀ら将軍義輝を殺害し、宣教師ヴィエラ、フロイスらを京都から追放する。 |
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| 1566 | 永禄9 | 長崎五島の領主五島純定がアルメイダを招き、日本人イルマン・ロレンソと共に宣教する。 その後、志岐鎮経は天草の志岐にアルメイダを招く。 (天草の本渡キリシタン館から見下ろしたアルメイダ像) |
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| 1567 | 永禄10 | アルメイダは長崎で翌年まで布教。 | |
| 1568 | 永禄11 | 足利義昭が織田信長に奉じられて入京し、将軍となる。 トルレスが志岐に畿内布教中のフロイスを除く5人の司祭と2人のイルマンを集めて協議会を開く。 (最後の室町将軍足利義晴の像) |
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| 1569 | 永録12 | ![]() |
宣教師ルイス・フロイスが信長と会見し、京都居住布教を許可される。(織田信長の肖像) 長崎では最初の教会・トードス・オス・サントス(諸聖人)教会がイエズス会により建設される。 天草最大の領主天草直種が天草河内浦にアルメイダを招き、崎津教会が建設される。 |
| 1570 | 元亀元 | 長崎はポルトガル貿易港として開港し、国際都市となる。 同時に長崎は各地から追放されたキリシタン達が集まり教会の町となっていく。 カブラルがインドより布教長として派遣され、天草の志岐にて10人の司祭と4人のイルマンが会議を開く。 |
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| 1571 | 元亀2 | 大村純忠がカブラルと長崎で会見し、その後、カブラルは大村の地で純忠の妻子に洗礼を授ける。 天草直種が日本布教長カブラルから洗礼を授かりドン・ミゲルと名乗る。(キリシタン2万人以上となる) |
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| 1573 | 天正元 | 信長は将軍足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡する。 (信長の居城の岐阜城の天守閣、フロイスの記録などにより近年再建される) |
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| 1576 | 天正4 | 信長は安土城(滋賀県安土町)を築きそこに移る。(当時の安土城の屏風絵) 島原の有馬義貞が洗礼を受ける。まもなく、口之津にジャンク船がマカオより来航する。 京都に南蛮寺と言われる壮大な教会堂が建設され、人々の話題となる。 |
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| 1577 | 天正5 | 摂津城主高山右近が領内の主だった者を集めて説教を聞かせ、その多くがキリシタンとなる。 (高山右近像 天守教会堂跡 野見町) |
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| 1579 | 天正7 | ![]() |
信長は安土に教会建立を許可する。(キリシタンは約13万人) イエズス会の東インド巡査使ヴァリニャーノ(イタリア人)が島原の口ノ津に到着。 (安土城内のセミナリオ 当時の挿絵) |
| 1580 | 天正8 | ![]() |
安土と肥前有馬(島原)にセミナリオ(小神学校)が誘致される。 領主大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄進する。 (有馬のセミナリオ 当時の挿絵) |
| 1581 | 天正9 | インドから来たイエズス会巡察使ヴァリニャーノが信長に拝謁する。 大友氏の領地であった府内(大分)にコレジオ(大神学校)が開校する。 (府内のコレジオ 当時の挿絵) |
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| 1582 | 天正10 | ![]() |
九州のキリシタン大名、大友・大村・有馬三氏による天正少年使節がローマへ出発する。 信長が明智光秀によって本能寺の変で自害し、その後、光秀を破った豊臣秀吉の天下となる。 (天正遣欧使節の少年達が宿泊したリスボンのサン・ロケ教会) |
| 1583 | 天正11 | 島津義久がイエズス会宣教師を鹿児島から追放。 | |
| 1584 | 天正12 | スペイン商船が九州の平戸に来航する。 | |
| 1585 | 天正13 | 天正少年使節がローマに着き、ローマ教皇に謁見する。 | |
| 1586 | 天正14 | イエズズ会副管区長コエリョが4人の司祭と4人の修道士、セミナリオの少年等30人程で大坂の秀吉を訪ねる。 | |
| 1587 | 天正15 | 秀吉が九州に出陣し平定する。(秀吉が出した切支丹禁制のお定め書) また、秀吉はキリスト教布教禁止、宣教師の追放令を出し、キリシタン大名高山右近の所領を没収。 日本にカトリック日本管区が設立され初代教区長にセバスチャン・デ・モライス司教が任じられる。 |
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| 1588 | 天正16 | ![]() |
秀吉はイエズス会から長崎を没収して直轄地とし、長崎のキリシタンを追放する。 (戦国の覇者、豊臣秀吉の肖像画) |
| 1589 | 天正17 | 島原の加津佐にあったコレジオ(大神学校)が迫害を逃れて天草の本渡に移る。 | |
| 1590 | 天正18 | 少年使節一行がヴァリニャーノと共に長崎に帰国し、持ち帰ったグーテンベルグの印刷機が 加津佐で初めて使用される。(天正少年使節の4人の少年と同行したメスキータ神父の肖像) 秀吉は小田原北条氏を討ち、天下を統一する。 |
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| 1591 | 天正19 | 秀吉がスペイン領だったフィリピンのルソン総督に入貢を要求する。 このころ改易された高山右近が北陸で宣教活動を行い多くの信者を得る。 天草の河内浦にコレジオ(神学校)が移り、少年使節が持ち帰ったグーテンベルグ印刷機を使い、 イソップ物語や平家物語、ラポ日辞典等が印刷される(〜97)。(左はローマ字どちりなきりしたん) 長崎でひらがなと漢字の木活字でキリスト教の教義を説いた『どちりなきりしたん』が出版される。 |
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| 1596 | 慶長元 | スペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂着する。 長崎で26聖人が殉教する。(このころ、キリシタンは30万人に達する) (長崎市内の殉教地西坂にある26聖人の像) |
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| 1597 | 慶長2 | 長崎にセミナリオ(小神学校)とコレジオ(大神学校)が、1602年には修練院もおかれる。 秀吉がルソン国使を引見する。 |
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| 1598 | 慶長3 | 秀吉が伏見城にて没。 | |
| 1599 | 慶長4 | 江戸浅草にフランシスコ会宣教師ヘロニモ・デ・イエズス神父によって教会が建設される。 | |
| 1600 | 慶長5 | ![]() |
細川ガラシャが大坂の屋敷で没する。(大阪大司教座聖堂前のガラシャ像) 関が原の戦いが起り、西軍に加わって破れたキリシタン大名小西行長が斬首に処される。 オランダ船が豊後に漂着し、乗っていたウイリアム・アダムスが家康に謁見する。 高山右近が預けられていた金沢に南蛮寺(教会)を建てる。 |
| 1603 | 慶長8 | ![]() |
《徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く》 (徳川家康の肖像画) |
| 1605 | 慶長10 | 幕府がスペイン人に通商を許す。 | |
| 1608 | 慶長11 | 有馬晴信の御朱印船乗組員がフィリピンのマカオでポルトガル人と衝突する。 | |
| 1609 | 慶長14 | 幕府がオランダとの貿易を許可し、オランダは平戸に商館を建設する。 九州の有馬晴信がポルトガル船を撃沈する。 家康がポルトガルに親書を送り、貿易の保護を約束する。 |
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| 1612 | 慶長17 | 幕府、領内のキリスト教禁止、京都の教会を破壊する。(キリシタン60万人を数える) (南蛮寺と呼ばれた京都の教会 当時の扇子絵) |
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| 1613 | 慶長18 | 幕府はイギリス国王の書簡を受け取り、通商を許す。 伊達政宗により支倉常長ら遣欧使節が出発する。(支倉常長の肖像画) 江戸浅草の鳥越で建設中の教会から36人のキリシタンが捕らえられて殉教する。 |
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| 1614 | 慶長19 | 幕府は大名の高山右近ら多くのキリシタンを国外追放とする。 この時、司祭89名中38名が追放され、残りは潜伏した。 九州のキリシタン大名大村純頼が背教し領内の郡で司祭2名を大村湾広島でも司祭2名を斬首する。 |
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| 1615 | 元和元 | 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡する。 | |
| 1616 | 元和2 | 幕府が外国船の寄港地を長崎と平戸に限定する。 また、西国大名にキリシタン取締りの強化等を命しる。 (現在、平戸市内に建つカトリック平戸教会) |
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| 1619 | 元和4 | 幕府はキリスト教禁令を出し、禁制を強化する。 | |
| 1622 | 元和8 | 貿易業者の平山常陳、ドミニコ会士ズニガ・フロレスら15人が長崎で処刑される(平山常陳事件)。
長崎の西坂で宣教師・キリシタンら56人が殉教する(元和大殉教)。 |
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| 1623 | 元和9 | イギリス人が平戸の商館を閉鎖する。 将軍家光による大迫害が起り、江戸では28年間で300名近いキリシタンが処刑される。(元和の殉教) この頃より信者は表面上仏教徒となり隠れて信仰する隠れキリシタンとなる。(元和の殉教図 部分) |
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| 1624 | 寛永元 | 幕府がスペインと断交する。 支倉常長をローマに案内したソテロらが大村で火あぶりとなる。 |
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| 1626 | 寛永3 | 長崎で踏絵によるキリシタン探索が始まり、長崎奉行がイエズス会宣教師やキリスト教徒らを処刑。 天草郡大江村の大庄屋の松浦氏がキリシタンを捨て、村民に踏み絵を行い、仏教への改宗を迫る。 (長崎で使われた銅製の板踏絵 国立博物館蔵) |
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| 1627 | 寛永4 | 島原藩主松倉重政がキリシタン340人を処刑する。 | |
| 1628 | 寛永5 | 長崎奉行水野守信がキリスト教徒を処刑する。 | |
| 1631 | 寛永8 | 長崎奉行竹中重義が、キリスト教徒を雲仙の温泉獄で拷問。 | |
| 1633 | 寛永10 | 幕府は許可のない海外渡航と渡航者の帰国を禁ずる(鎖国の始まり) | |
| 1634 | 寛永11 | 幕府がイエズス会宣教師ビエラらを処刑。 幕府が長崎に高札を立て、外国船の来航と奉書船以外の渡航を禁じる(第2次鎖国令)。 |
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| 1635 | 寛永12 | 幕府は日本人の海外渡航、在外日本人の帰国を禁じる。 また、全国の大名に領内でのキリシタン改めを命じる。 (シャム(今のタイ)から帰国出来なくなった山田長政の像) |
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| 1636 | 寛永13 | 幕府はポルトガル人を全て長崎の出島に収容する。 | |
| 1337 | 寛永14 | イエズス会宣教師のマストリリが薩摩国に上陸し処刑される。
肥後国天草のキリスト教徒が、島原一揆に応じて蜂起する(天草島原の乱)。 |
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| 1638 | 寛永15 | ![]() |
前年に起こった天草島原の乱が幕府軍によって鎮圧され、天草四郎没する。 島原藩主松倉勝家が島原の乱の責任で所領を没収され、美作に配流される(7/19斬罪)。 幕府は全国にキリシタン穿鑿の徹底を命じるとともに、訴人への褒美制度を創設。 (天草四郎陣中旗「天草キリシタン館所蔵」幕府軍の戦利品として現代に伝わる) |
| 1639 | 寛永16 | 幕府は諸大名にキリスト教の厳禁を命じ、ポルトガル船の渡航を禁止。 ポルトガル人やその混血児を国外追放とする。(鎖国の完成) 米沢藩が領内の郷村に切支丹横目(きりしたんよこめ)を派遣し、キリシタンの摘発を行う。 |
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| 1640 | 寛永17 | ポルトガル船が貿易再開を求めて来航し、使節ら61名は西坂で処刑される。 仙台藩が、イエズス会宣教師のフランシスコらを逮捕する。 |
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| 1641 | 寛永18 | オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。 天草は幕府直轄の天領となる。 (長崎の出島の図 日本の郵便切手より) |
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| 1644 | 正保元 | 最後の司祭マンショ小西が処刑され、日本には司祭が不在となる。 | |
| 1646 | 生保3 | 幕府が江戸小日向の筑後守山屋敷をキリシタン収容所(後に切支丹屋敷と呼ばれる)とする。 | |
| 1647 | 正保4 | ポルトガル船2隻が修好回復を求め長崎に入港する。 (この時来航したポルトガル船 長崎古地図) |
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| 1654 | 承応3 | 初めてキリシタン禁制の高札が立てられる。 | |
| 1656 | 明暦2 | 武蔵国児玉郡渡瀬村(埼玉県児玉郡神川町)とその周辺で14名が捕らえられ、うち7名が殉教する。 | |
| 1657 | 明暦3 | 長崎の大村で切支丹608名が捕らわれ、うち411名が一斉に斬首される。(郡「こおり」くずれ) | |
| 1658 | 万治元 | 平戸藩領内のキリシタン60人余が梟首される。 | |
| 1660 | 万治3 | 豊後(大分県)で、この年から翌々年までに切支丹220名が捕らえられる。(豊後くずれ) | |
| 1661 | 寛文元 | 美濃尾張(岐阜・愛知県)でこの年からの7年間に切支丹3000名余りが処刑される。(濃尾くずれ) | |
| 1653 | 寛文3 | 肥後国熊本藩主細川綱利が領内のキリスト教徒33人を捕らえたことを長崎奉行が幕府に報告する。 | |
| 1682 | 天和2 | 武蔵国大里郡玉井・広瀬両村のキリシタン3人捕らえられる。 | |
| 1687 | 貞享4 | 幕府がキリシタン転向者とその親族の査察を命じる。 | |
| 1709 | 宝永7 | イタリア人宣教師シドッティが密かに来日するが、捕らえられ老中の新井白石と会見する。 (シドッティが日本に持ち込んだ油絵「親指の聖母」) |
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| 1790 | 寛政2 | 長崎の浦上でキリシタン191名が捕えられる。(浦上一番崩れ) この頃より大村藩から隠れキリシタン達が五島へ大量移住する。 (長崎の隠れキリシタンの聖母子像画) |
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| 1804 | 文化元 | 天草郡今富村で切支丹の遺物が発見され、また、牛を殺し肉を仏壇に供えその肉を喰う事件が起る。 | |
| 1805 | 文化2 | 天草郡の崎津、大江、今富、高浜の四ヶ村で前年の事件を契機に5,202名の隠れ切支丹が発覚し、 幕府はその数余りの多さに単なる宗門心得違いの者として穏便に処理したと言われる。 この時、切支丹より「刀の鍔」「ゼニ仏」「大黒像」「鏡」などの品が没収される。(天草くずれ) |
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| 1820 | 文政3 | 武蔵国北葛飾郡権現堂村(埼玉県幸手市権現堂)にイメス智信の名があるマリア地蔵が建てられる。 | |
| 1839 | 天保10 | 浦上の中心人物が捕えられ、後に釈放される。(浦上二番崩れ) | |
| 1844 | 天保15 | パリー外国宣教会のフォルカード(その後、日本教区長になり司教に叙階)が琉球の那覇に来航する。 この時、フォルカードは那覇に波止場で踏絵石を見る。 |
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| 1854 | 嘉永7 | 幕府が日米和親条約に調印し、長崎と箱館を開港する(日本の開国)。 | |
| 1855 | 安政元 | 幕府が日露和親条約に調印し、下田、函館、長崎を開港する。 | |
| 1856 | 安政3 | 浦上の主要人物が捕らえられ、最高指導者の吉蔵が獄死する。(浦上三番崩れ) 長崎のオランダ出島商館長クルチウスが踏絵の廃止を長崎奉行に進言する。 |
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| 1858 | 安政5 | 長崎で踏絵が停止される。 | |
| 1865 | 慶応元 | ![]() |
パリー外国宣教会のプチジャン神父が長崎の大浦天主堂(フランス寺と呼ばれる)を建設し、 それを知って訪ねて来た浦上の隠れキリシタンを発見、世界的な事件となる。 (プチジャン神父「翌年に司教」の肖像) |
| 1867 | 慶応3 | ![]() |
浦上で信徒68名が捕縛される。(浦上四番崩れ) (大浦天主堂のマリア像 写真は大正初期のもの) |
| 1868 | 慶応4 明治元 |
《王制復古、明治政府が樹立される》新政府、五榜の立札を全国に掲示し、キリシタンを禁じる。 五島崩れが起り、発端の地の久賀島だけでも200名余りが捕縛され、うち43名が殉教する。 (太政官 キリシタン禁制の高札 慶応4年 埼玉県) |
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| 1869 | 明治2 | 諸外国の抗議にもかかわらず、浦上のキリシタン3000余名が22藩に配流される。 | |
| 1871 | 明治4 | 踏絵が全面的に停止される。 | |
| 1872 | 明治5 | 親善使節の岩倉具視が訪問した諸外国で日本の禁教政策に対する激しい抗議行動に驚き、 「速やかに信教の自由を許さねば我々の任務は全うし難し」 と打電し、明治天皇の英断によって信教の自由が許される。(岩倉具視の装束姿の肖像) |
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| 1873 | 明治6 | ![]() |
正式にキリスト教禁制が解除され、切支丹禁制の高札が撤去される。 配流されていた浦上のキリシタンが故郷に帰る。(この頃、信者数1万5千を数える) (国宝 長崎市 大浦天主堂 日本に残る最古のキリスト教会で写真は大正初期のもの) |
| 1874 | 明治7 | 日本各地で教会が復活する。天草郡大江村(天草町大江)には小さな天主堂が建てられる。 当時の大江村では全900戸のうち僅か70戸を除いて皆隠れキリシタンであった。 (写真は現在の大江教会) |
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| 1882 | 明治15 | パリ外国宣教会のボンネ神父が天草の崎津・大江教会の初代主任司祭に着任。 | |
| 1883 | 明治16 | このころ、天草郡津崎村(河浦町津崎)の庄屋吉田家跡地に津崎教会の建設が始まる。 (写真は現在の崎津教会の聖堂で昭和11年に建てられた3代目) |
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| 1942 | 昭和17 | マニラで、高山右近の顕徳ミサが行われる。 | |
| 1999 | 平成11 | ザビエル日本上陸450周年(キリスト教伝来450年)が盛大に祝われる。 |