現代素人落語論

英語落語について
私が英語落語に挑戦したのは昭和56年(1981)の浪人中の秋でした。当時英語が苦手で苦手でこりゃ来年もやばいぞと思っていたところ、ラジオ英会話の教本の後ろのほうに英語学校の宣伝が載っていてその中に「スパルタ式!東京○本英語専門学校」があって、このスパルタ式というのに引かれて、つい入校してしまいました。スパルタ式というだけあって、その学校ではケネディー就任演説を暗記して渋谷の駅前でみんなの前で発表させられたり、校内で英語以外でしゃべったら罰金をとられる等いろいろと楽しませてもらいました。私が行っていたのは夜間コースですが、昼間コースもあり、学校というだけあって文化祭があるんですよ。そこで何かしないかということで、当時進学しようか噺家になろうかと悩んでいた私はじゃあ落語を英語でやってみよう!と思い挑戦してみたんです。もう一人会い方の梅○さんとやりました。私は「長短」と「寿限無」、梅○さんは「鷺とり」をやりました。落語が英語で通じるかな?いや落語を英語でやって世界の人に落語の面白さをわかってもらおう!などと当時血気盛んな私は思ったものです。
英語落語といえば今は亡き桂枝雀さんが有名ですよね。今でもそのあとを継いで桂かい枝さん達が行なっているようです。
私も久しぶりにまた英語落語に再チャレンジしてみようかなどと考えることがあります。

小春団治の海外公演の模様が、高校の英語教科書副読本「グローバル・ランナーズ」に紹介されました。(平成14年5月発売)異文化理解のテーマで、日本の伝統芸能である落語を海外に紹介する活動を展開している小春団治と英国人プロデューサー、マイケル・ジャックソンの活動の様子がまとめられています。小春団治さんは英語字幕で海外公演をされているようですね。



落語の著作権について
私たち素人の落語愛好家はなんの断りもなく勝手にテレビやラジオからの音源や映像を参考に落語を覚える。
噺家さんの世界では根多を師匠に教えてもらい許可をもらってから演じるのが慣わしのようである。素人が演じるのであるからそれで商売するわけではないので許されるのでしょうけど、つい「勝手にやらせてもらってます申し訳ありません」という気持ちになってしまう。
最近は落語のスタイル(座布団、着物、扇子、手ぬぐい、等で演じる)や古典落語などは日本人の共通の財産なんだから気にしなくっていいかなと思うことにしました。でもそれぞれの噺の中での工夫などは工夫した演者のものであるから、やはりそれでおまんまを食べているプロの場合は使わせてもらうときには配慮が必要なのではないかな。基本的にはパクリは避けるべきですが、パクったとしてもその人のほうが面白くて売れてしまえばその人のものになってしまうんですから、まあプロであればパクったりしたら自尊心が許さないでしょうけどね。パクるよりももっと面白いことおれがやったる!という気持ちが強いのであまり問題にならないのでしょうね。

でも新作なんかのときには著作権はありそうですね。よく新作の時には○○作と書いてありますもんね。(漫才の時も書いてあったりする) 噺家さんと契約して新作を書いたものなんかには著作権はきっとあるのでしょうね?



地域芸能としての落語
「落語も全国的な演芸として認められた為に、さまざまな感覚が入り混じって平均化されていますが、やはりどこかしらには江戸東京の感覚に根ざした地域芸能の一面も残しておきたいと思っています。」(五街道雲助)
これは雲助さんのHPの人情噺論のところでみつけたひとこと。

落語には笑いのエッセンスや人の業や情などが洗練されていて万人に通ずるところがあり、そこが落語の凄いところなのですが、落語の本質はその時「寄席」という空間にいて、演者とお客さんが作り出すライブであるので、その時、その場所にいた人(当然そこにあつまる人の地域性も影響する)にしか味わえないものなんでしょうね。ときおり人前で落語をさせていただきますが大概の感想は「テレビで見るより迫力があった」「周りの人が笑っているのでついつられて見入ってしまった」「はじめて落語を最後まで聞いた」「意外と面白いんですねナマで見ると」というものが結構多い。実際に寄席で落語を聞いた人はほとんどなく、落語の面白さを知る一歩も二歩も手前の人がなんと多いことかと痛感します。
素人落語は、プロには及ばないですが、確かにその場にいるお客さんに落語的空間を体験していただくことはできるのではないでしょうか。(古典落語などは洗練されているので笑いに再現性があるのでありがたいです) そしてその地域の匂いを感じながら演じていることがテレビやラジオで聞く落語とはまた違った、生活感や匂いのある落語となり、そして生活感があるからこそ、そこでの生活を笑い飛ばしてくれるものになるかもしれませんね。



江戸落語と上方落語
大学に入学するまで関東地方で暮らしていたこともあり当然普段から聞く落語は江戸落語であり、覚えた噺も江戸落語であった。
上方落語があることは知っていたが聴く機会が無かった。大学の落研に入り初めて上方落語を聴いたが、根問いもの(二人がこれといった意味の無い話を掛け合いで展開していくもの)は江戸には真似できないなあと感じる。落語に限定されているわけではないが上方の「んな、あほな!」に出会い感動する。このようなニュアンスの言葉は江戸落語には見つからない。マジで上方落語に転向しようかと思ったことを思い出します。そのためか私の落語は素地は江戸落語であるがかなり上方要素が含まれた仕上がり具合になっているように思う。



好きな噺家
子供の頃テレビで時折見たのが小三治師匠の「初天神」と「小言念仏」である。えらの張り具合がうちの親父に似てることもあって、勝手に身近に感じ、好きな噺家だった。大学入学前には小三治師匠の所へ弟子入りしようと真剣に考えたものだった。中学時代初めて圓生を聴いた時は落語にこんな世界があったのかと感動する。この時いくつか聴いた中に「死神」があったのだが、この噺は今だに私のライフワークとなっております。落研に入りいろんな人の噺を聴くうち、お気に入りは志ん生、談志、三平にしぼられました。今でも落語聴きたいなあ、ほんわかしたいなあ、と思うと志ん生の「千両みかん」や「三年目」を取り出し聴いてみる。談志はなんかむしゃくしゃした時などに聴くといい。談志の噺の枕だけ編集して聴いてみるが、時代が変わった今聴いても、あの切り口はたまらない。そして三平さん。今はやりの「さんぺ〜い、で〜す」のそれではなく「どうもすみません」の三平です。あのサービス精神旺盛な高座は今でも凄いと感じる。この三人をミックスしたような噺ができればなあ・・・
平成13年志ん朝師匠が亡くなられました。あまりにも華やかでそつなく噺をこなすので、好きな噺家三人集には入っていませんでしたが、今考えると結構志ん朝師匠の噺を参考にして落語を覚えたのだなあと、つくづく思います。これからの人はもう生志ん朝を見る事ができないのですよね。残念です。



地咄し・漫談と古典落語の違い 〜心地よいリズム〜
落語の基本はなるべく解説をいれず、会話スタイルでお客さんにその情景を想像していただくのであるが、これが意外と難しい。心地よいリズムを打ち続けるのはなかなか容易でない。途中こちらが期待していたくすぐり(笑わせるツボのようなところ)で思っていた反応が返ってこないと「やばい!」と思ってしまい、次の間が異様に長かったり、逆に肩に力が入り間が詰まったりしてしまう。また会場で誰かがごぞごぞしてたり子供が奇声を発したりすると。「やばい!お客が引いてしまう」と考え、妙に押しが強くなり「あと一歩待てば笑えるのになあ」という、素人のおちいりやすい、間の詰まった噺になってしまう。
聴いている人にとっては、まわりでちょっと人がごぞごぞしようが落語の世界に浸っているので、実はあまり気にはならないのである。しかしこちらが動揺してしまい勝手に心地よいリズムを崩すものだから後半持ちこたえられない。落ちのしっかりしている話だとまだ誤魔化しが効くが、後半笑いに笑いがかぶさっていき、だんだん笑いが大きくなり、笑いの頂点で噺を終わらすタイプのものは非常に難しい。「こういうところがプロの噺家さんとの大きな違いだなあ」と先日南朝さん(私の落研時代の師匠)がぼそっと話しておられました。地咄しや漫談であれば日常の中で人前で話す機会があれば(講演などで)そこで鍛えられ、その応用でなんとか自分なりのリズムを保ちつづけることが出来るし、話しなれた短めの古典であれば最後まで心地よいリズムを崩さず演じることができる。しかしこれが長めのものになってくると、心地よいリズムを保ちつづけることは容易ではない。



落語とめがね
噺家さんの中でめがねをかけている人は少ない。想像の芸である落語にとってめがねをかけていると、それを見ている人が落語の中の登場人物を心の中に描く妨げになるからだといわれている。また目元の表現なども微妙に制約されてしう。
私は普段目が悪くめがねを使用している。そのため漫談落語や地噺をやる時にはめがねをかけたままでやることが多い。また古典を行なう場合でも途中までめがねをかけていて「美人が多い時はこのままかけつづけるのですが・・・今日はその必要はなさそうですね!」とやってはずしたりする。
最近噺をするときに思ったように受けない噺があることに気づいた。長短、野ざらし、愛宕山などでは気にならなかったのだか。粗忽長屋などではどうもお客さんが緊張しているようなのである。そこで普段は自分の噺をビデオにとってチェックしないのであるが、どうにも気になってチェックしてみると、なるほどなあと気がつきました。
めがねをかけているときは普段と視界が変わらないため、余裕をもって演じているし、表情も豊かである。ところがめがねをはずして演じているものを見ると自然と目を細め、眉がつりあがっており、表情が硬いのである。長短は気の長いのと短いのとのコントラストがはっきりしているのと何度も高座に上げていることもあり長さんの表情は眉も下がり(内側があがり、外側が下がるかたち)お客さんも肩の力を抜いて見る事が出来る。野ざらしや愛宕山など途中で唄が入ったり、状況を動作や目線などで表現しなくてはならない噺の時は顔の表情もまあまあであるが、淡々と話しの進むものだとこちらが意識していないといつの間にか、しかめっ面になってるのです。目を細め眉がつりあがっているものがどうしが登場する噺を見てたら自然と緊張してしまう。
そう思い噺家さんのビデオや写真を見直してみると、眉毛はさがっている。眉の内側があがりぎみで外側さがり、つぶらな瞳が基本の表情。あの一見こわそうな談志でさえこの基本の表情だったのだ。
めがねをはずした時のあの目元のしょぼしょぼ感をなんとか克服してお客さんが安心して見る事の出来る噺に仕上げなくては・・・・



笑いの質 その1
 笑いの質というのはかなり複雑である。漫才と落語。そして同じ落語でも漫談調のものと、しっかりと登場人物を描きその中の人々の織り成す人間模様で笑わす落語スタイルのものでは、かなり違うのではないでしょうか。
 漫才と漫談調落語の場合はそれを見た人が頭の中で人物や場面をあまり思い浮かべる作業は必要なく、受身要素が多いと考えます、最近のテレビや映画なども笑いの要素がふんだんに盛り込まれていますが、映像要素や、音響効果など相手からほとんどすべて与えられています。
 ところが後者の落語スタイルの場合はある程度は演者が表現しますが、それ以上のところは、聴いている人が、いままでの経験を元に想像し、また膨らませて(創造)頭の中で思い描いています。それゆえ同じ噺を聴いても登場人物の印象や場面が人それぞれ違ってくるのではないでしょうか。(子供の頃、夜寝る前に親に本を読んでもらった時のような感じかな?)それと、同じ人が聴いてもその時の体調や心理状態、前に落語を聴いた時と比べてその人がどんな経験を重ねてきたかによっても違うと思います。
 私は素人落語をやっており、お客さんが喜んでくださるのであればどちらでも演ずるのですが、(皿回しや物真似もしてしまう・・・笑)あとでお客さんに聞いた印象として、その場限りのストレス発散には前者でも十分役立つようですが、「人間って結構馬鹿馬鹿しくもいとおしい物だったんだよな!肩の力抜いて明日からも頑張ろう!」とあとからほのぼのと感じるのが後者のようですね。
 



ネタとの付き合いについて
 やはりネタを披露するとなればお客さんに満足していただきたい。そのためにはネタとどう付き合っていくかが大切である。
 大学落研当時のネタについては年2回行う大きな寄席(発表会のような感じかな?)にむけて練っていくパターンと、落語に理解のあるお店で行う寄席とか余興を頼まれたときに何度も高座にかけられるネタと二通りあったように思う。
 何かの本で読んだがアマチュアは発表会でうまくやるために練習し発表会が終わればそれでおしまい、プロは一度高座にかけてからその噺との付き合いが始まり、そのネタに徐々に肉付けがされていく、とい言うのが両者の大きな違いだそうだ。
 やはりお客さんに満足していただくには後者のようにネタと付き合っていきたいものです。
 しかし、プロとは違いネタを披露する機会も少ないので練り上げていくのはなかなか難しい。地元の定席や同じお客さんの前での披露だけだと毎回同じというわけにはいかないので、無理してあまり練り上げてない違ったネタをしていかないといけなくなってしまう。
 そうなるとやはり遠征をして違った客層の前で行う機会を作ることが必要である。そして今は「長短」「子ほめ」「のど自慢」など絞ってしつこいくらいやるようにしている。そうやって少しづつ体にしみ付いたネタを増やしていきたいものです。

 
 



すごい人たちがいた!
 愛媛県新居浜市を中心で活動していたので、井の中の蛙になってしまい、自分本位の落語をしていないだろうか?自分の落語は他でも通じるものなのだろうか?などと思っていた時に、先輩の主催する落語会(平成15年10月)に参加させていただきました。その時に、お見かけした落語が実にすごかった。「わー・・・、こんな落語をするアマの人が世の中にはいるのか・・・」と、びっくりいたしました。その夜の打ち上げの時に、話をしたのがきっかけで、「新居浜で落語を聴く会」を立ち上げたり、翌年開催される「国民文化祭」に応募してみようかと、思ったのでした。
 生まれてはじめての、コンテストへの応募。結局コンテストの方では、8名の中に入ることができず、なんとか前日開催のフェスティバルの方に拾っていただき、福岡へ!そして、そこにはすごい人たちが全国から、いっぱい集っていたのでした。
 落語仲間が集っての夜の宴会はこれまた最高におもしろく、当然「フェスティバル」も「コンテスト」も出演者はもちろん、下座を支える方々も一緒になって、最高の二日間を送ることができました。アマとして落語を何年も続けてこられた方々の落語には、プロの落語にはない独自の味がありました。








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