14/03/04 グローバル・エシックス研究会

暴力と詩 シモーヌ・ヴェイユの可能性−

                                      今村純子

I

2004年現在、わたしたちは、再度の「暗い時代」を歩むことを余儀無くされている。いま、わたしたちの意識は、どのような変容を蒙っているのであろうか。わたしたちの意識が、「日本人」の表象となる「無関心」という有り様を呈していた場合、それは、おのずから、深層意識に虚無や不安を抱える「感じられる無関心」とならざるをえない。そして、「自由意志」によって「権力体制」を支えるひとびとのみならず、「感じられる無関心」の魂を抱くひとびとが、ある一定の「量」をなしたとき、「権力体制」は、「暴力」を振るうことをやすやすと正当化してしまう。前者は明らかに「力」という魔物に魅了されている。そして、後者は、「思考停止」によって、それと知られずに「力」に取り込まれてしまっている。

この構図は、いうまでもなく、ヒトラーがその天才を如何なく発揮し、権力意志を表立って崇拝する、かれを補佐するひとびとを上部構造とし、「感じられる無関心」の魂を抱く大衆を下部構造とし、さらに、この上部構造、下部構造内部における人間の絶妙な心理の動きを適確に掴み、犯罪を正当化する暴力の巨大組織を構成していったその骨格にほかならない。

シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)は、ヒトラーの暴力が席巻する「戦争と革命」の世紀を生き抜いた。彼女はこの暴力に直面して、何を認識しえたのであろうか。この巨大な暴力組織に抵抗できるものなど、この世に存在するわけがない。そもそも、わたしたちが、もし抵抗できるものを考案しようと試みるならば、その姿勢そのものが、善悪二元論の構図をとり、自らを善の側に位置付けるという暴力に魂を売り渡してしまっていることを意味するであろう。

それにもかかわらず、彼女はこの絶望的な状況のなかで、現実の直中において、あえて、言葉を紡いでいくことを意志していた。残された著作は、公にされているものであっても、未完結であるとの感を読者に与え、その詩的言語の美しさと明晰さにも拘わらず、その思想の本質を掴むことは難しい。そもそも、本当の認識というものは言語化されえないものである。しかし、彼女は、自分の掴んだ認識を、言語を駆使する人間の義務として、公に提示してゆく責任を果たそうとした。こうした彼女の思想は、概念化というもの一切を拒み、肉迫した実在の本質が、「詩的言語」をもって綴られることを中核にすることになるのである。しかし、彼女の言葉が、完全に己というものをひとたび捨て去ったひとの言葉であることを忘れてしまうのならば、わたしたちは彼女の言葉を決して認識しえない。

ところで、「感じられる無関心」の魂は、なぜ、やすやすと「力」に取り込まれてしまうのであろうか。それは、「感じられる無関心」が常に自らの不安や虚無を払拭してくれると確信できる「偶像崇拝」の対象を渇望しているからである。「偶像」に身を委ねることで、恐ろしい現実を自ら思考するということを停止し、不安や虚無を払拭してくれる「他の思考」に則りたいと願っているからである。こうして、「感じられる無関心」の魂は、知覚しているかのように生きる、認識しているかのように生きる、「偶像に手を触れてはいけない。金箔がはげる」(フローベル『ボヴァリー夫人』)という偶像崇拝の掟を忠実に守る生を歩むことになる。

シモーヌ・ヴェイユは、「偶像崇拝」の誘惑が、どこまでもわたしたちの意識に浸透してくる有り様を次のように表象している。「殉教者たちは神と離れているとは感じなかったが、かれらが念頭においたのは別の神であった。それにおそらく殉教者にならなかった方がよかったのである。責め苦や死のなかに見い出したかれらの神は、ローマ帝国が公式に採用し、そして、皆殺しという手段によって押し付けた神となんら変わらない」(『重力と恩寵』)。たとえ、そのひとの行為が、暴力に抵抗する「非暴力」の様相を呈していたとしても、そして、その行為に自らの生命が賭けられていたとしても、その行為が、神や教祖という宗教的「偶像」によるにせよ、党派、主義、あるいは非主義という政治的「偶像」であるにせよ、そのひとが、自らが想定した自らよりも強い「力」の存在ゆえに行動するのであれば、それは「暴力」にほかならない。己の存在は己よりも決して低くも高くもないのである。しかし、わたしたちの認識能力の最大の敵は、決して認識しえないものを認識したいと望み、そして、認識不可能性に直面したとき、認識しているかのような架空の実在を想像力によって構築してしまうことにある。そして、また、「非暴力」であるかのような行為は、「なにわ節」に比せられる「感傷性」という陥穽に陥るヒューマニズムのナルシズム的有り様を構築する根源になりうる危険性を孕むものである。

さらに、言葉の上において、「偶像」は如何なる働きをなすのが見てみたい。「スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いていく」(埴谷雄高「政治のなかの死」)。まさしく、言葉の上における「偶像」とはこのスローガンにほかならない。そして、シモーヌ・ヴェイユは、自分の知性を褒めそやすひとびとを前にして、自身の言葉が容易にスローガンとなりうる危険性を重々承知していた。だから、彼女の言葉は、受け取った側が自ら思考せざるをえない、一切の概念化を拒むものとして提示されるのである。他方、彼女自身が、実際に、批判の対象となるスロ−ガン化した言葉として挙げるのは、とりわけ、民主主義、人格、権利の三つである。この三つの言葉が、本質的には「正義」を提示していることはいうまでもない。だが、これらがスローガンとして掲げられたとき、わたしたちが思いもよらない「不正義」を振りまくことを彼女は見逃さなかった。スローガンは、「他の思考」に則り、自らも思考しているかのように生きることを可能にさせてしまう。マルクスは思考しているかのような哲学研究者を批判したのであり、シモーヌ・ヴェイユは、民主主義、人格主義、権利の可能性を提示しているかのような知識人を非難したのである。民主主義、人格主義、権利をかかげる知識人たちは、自らの人格や権利が脅かされることが決してない「特権」を把持するものばかりであることを彼女は指摘する。自らの人格や権利が剥奪される畏れがない位置にあるかれらには、人間のうちの何がもっとも暴力に曝されうる可能性を有し、そして、何が守られなければならないのかが理解できないのである。「わたしたちのうちにおいて、魂のもっとも貴い部分は、寒さにふるえ、避難所と熱を求めてかけまわる、貧窮のうちにあるものなのだ。その魂のもっとも貴い部分が、たとえまだ待機中にすぎないにせよ、社会的配慮の衣にぬくぬくとくるまっているようなひとたちには、このことが分からない」(「人格と貴いもの」)。そして、この魂のもっとも貴い部分が、暴力に曝されるがままにされるのであれば、「ごく自然の優しい気持ちのなかで、そうなってはならないひとがそうなってしまうのですね」(金時鐘「いま居る場所」)というように、当初の平時ではない現実への直面の驚きや戦慄が、いつの間にか自然的なものへと移行し、暴力が、当たり前の顔をして、日常を跋扈することになってしまうのである。そして、民主主義、人格、権利が前面に押し出されたとき、人間のうちにあって「もっとも貴いもの」、「もっとも守られるべきもの」、「もっとも脆いもの」が容易に踏みつぶされてしまうその危険性を彼女はもっとも危惧したのであった。

暴力に抵抗するのではなく、暴力を減少させうるもの、それは、如何様にも解釈できる「愛」という言葉この一語のみである。そして、ヴェイユの「愛」の境位は、これまた如何様にも解釈されてものであり、しかも、現代思想において、言葉だけが一人歩きし、実際はほとんど認識されていない「狂気」という言葉である。「愛の狂気」という、明らかにスローガン化の危険性と隣り合わせである、この仲介の働きのみが、暴力に潜入し、暴力の内部に、暴力が完全に死滅させてしまっていた善の意識を新たに再生させる可能性を有するのである。そして、この「愛の狂気」の働く場が、奇妙な表現のように思えるかもしれないが、「詩」なのである。ここでいう「詩」は、「言葉のなかに閉じ込められた詩ではない」(「奴隷的でない労働の第一条件」)。人生そのものが、つまり、「存在」そのものが詩であるような有り様である。この詩性、「愛の狂気」の働きうる詩性を、ヒトラーの暴力の渦巻く直中において再生しようと意志し、それを言葉によって表現しようと、ヴェイユは最期まで努力したのである。

ヴェイユが、ヒットラーの暴力の席巻する当時のヨーロッパで得た認識は、「強者と弱者が存在するとき、可能なことは強者によって成し遂げられ弱者がそれを受け入れる」(ツキュヂィデス『歴史』)という、情け容赦のない苛酷な必然性の認識であった。そして、彼女の現実の世界における実践とは、「不可能性」に身体をもって体当たりすることの連続でしかなかったように思われる。だが、この「不可能性」への激突という実践こそが、もし、わたしたちの魂が想像力へと身を委ねることがなければ、理論を構築するのである。わたしたちの認識欲は、生存するかぎり尽きることがない。そして、この認識欲を突き詰めていけば、多かれ少なかれ「認識不可能性」に到達せざるをえない。だが、この認識欲は、当然のことながら、「偶像に手を触れてはならない。金箔がはげる」という偶像崇拝の掟を破りたいと願うものであり、そして、この掟を破ったとき、魂は、この掟が、「偶像に手を触れてはならない。死に直面する」ということを認めざるをえない。真理は死であること、そして、死は生のなかに点在していること、さらに、死は生に対置されるものではなく、生を包み込むものであることを認識せざるを得ない。「肉体が死を厭うように、魂が認識することを厭う」(「神への愛と不幸」)、この不可能性が、わたしたちの存在において可能となるのである。自明となっている明証性一切を本当に括弧にいれてしまうとき、魂は死に直面する。だが、それにもかかわず、魂の死と引き換えにしても、わたしたちの純粋意識は真理に直面することを欲するのだとヴェイユは看做しているのである。彼女の普遍性とはこのような有り様において提示される。そして、暴力の権力体制に潜入し、隠蔽されているこの純粋意識の渇望を呼び覚ます使命こそを、万人が、魂の奥深くに把持している「愛の狂気」に彼女は担わせるのである。

その有り様は、実際、「自由フランス」に提出した、彼女の「第一線看護部隊編成計画」(1940)の草案に端的に示されている。この草案は、明らかに実現不可能なように思われるし、一見すると、現在のフェミニズムの視点から俯瞰した場合、様々な問題を孕むもののように思われる。だが、その本質は、現代のフェミニズムをはるかに先取りしているものである。

この草案は、前線で負傷した兵士を手当てするごく少数の女性だけの看護部隊を編成することを目論んだものである。彼女たちの、己の生命を危険に曝すことも厭わない勇気ある稀少な存在そのものが、外見の脆さとは裏腹に、驚くべき効果を挙げるとヴェイユは考える。実際の手当ての内実よりも、生と死の間を彷徨うことを余儀無くされている兵士たちに、彼女たちが言葉を投げかけることによってかれらの魂が失ってしまった暖かさを取り戻すことが、どれほどかれらの魂を救うことになるかとヴェイユはいう。さらに、それだけではなく、自分の生命をも差し出すことを厭わない彼女たちの存在が、その生命を差し出す意味が、「権力欲」という力の「偶像崇拝」によるものではなく、「愛」によるものであることを、その自己犠牲の本当の意味を、彼女たちが「そこにいる」という存在が提示しうるのならば、獣的本能をヒトラーに工みに操られている、狂信的なS.S.を非現実から現実の世界に連れ戻し、かれらの魂のうちにかれらが失ってしまっていた「他者への愛」、「善への渇望」を呼び覚ますことができるとヴェイユは考える。彼女は、このように、内部から自己崩壊的に暴力体制を打ち砕くことを意図したのである。

II.

ところで、「偶像崇拝」的ヒューマニズムではない、「非暴力」の有り様とは実際のわたしたちの生においては、どのような様相を呈しうるのであろうか。

必然性の認識を徹底させるヴェイユは、「人間の魂は、振り上げられた鞭に対して、けっして同意することができず、必ず震える」(『前キリスト教的直観』)という。それと同様に、生死の境に位置する極限に面して殺人が正当化された場合、人間は、なんら罪の意識もなく、殺人を行うことが可能であると彼女はいう。

文学作品における「想像界」の危険性を認識していた彼女が評価する数少ない文学作品のひとつに、ホメロスの『イリアス』が挙げられるのであるが、彼女がホメロスを評価する所以は、かれが、苦悩に満ちた直視不可能な現実をあますところなく描写し、そこに美を見い出したことである。その『イリアス』における彼女の洞察は、ひとが、暴力を振るうことによって、暴力を振るう側も、振るわれる側もひとしく「もの」になるということである。暴力を振るうものは、自らの魂が根こぎにされているからこそ、他者の認識ができず、他者をも根こぎにしようとするのである。『イーリアス』において象徴的なのは、死を前にしたとき、力を振るうそのひとが、自らの権威が何の役にもたたないことを熟知していることである。ただ、一瞬の間、自らの命を引きのばすために、相手を殺すのである。弱者は強者よりも死が先行するというだけで、登場人物全てが自らが必然性の鎖から逃れられないことを認識しているのである。命乞いをするリュカオンにアキレスは次のようにいう。「さあ友よ、君も死ぬのだ。なぜそれほど嘆くのだ。君よりはるかに優れていたのにパトクロスも死んだ。それに、君には、このわたしがどんなに優美で偉大であるかが見えないのか。わたしは貴い生まれで、女神を母としているのに、わたしのうえにも、夜明け前か、夜中か、昼のさなかに、死と惨い運命がのしかかるのだ。わたしの命も武器によってもぎ取られるであろう」(ホメロス『イーリアス』XXI.106-114 /「『イーリアス』力の詩」)。この引用は、戦時の暴力の相乗的連鎖を端的に示しているといえるであろう。兵士は、職業としての自らの死を未来に想定することなく、自らの未来を思い描くことができない。だが、この死に対して決して同意はできず震える。この震えを押さえるために、己の死を他者に転化することによって、つまり、他者の生命を奪うことによって、いっとき想定された自らの死を宙づりの状態に保つことができるのである。さらに、自らが思うがままに「力」をふるえるという「非現実性」が、恐ろしい「現実性」をいっとき隠蔽する作用を果たし、それがまた人間の魂を酔わせもするのである。

シモーヌ・ヴェイユは、他者の存在がわたしたちの意識にどのように表象されるのかを、次のように提示する。「わたしたちが路でひととすれ違うとき、そこにはり紙があるのとは違った歩き方をする。部屋のなかに客がいるとき、ひとりでいるときとは違った挙動になる。このように、「ひとがそこに存在する」ということがわたしたちに与える影響力は定義するのが難しい。」(「『イーリアス』力の詩」)。はり紙の側を通るのとは別様の仕方で、部屋にひとりでいるのとは別様の仕方で、「わたしがある」ことを他者の存在はわたしに指示する。このことが、他者の認識に不可欠な距離をわたしたちに保証する。この認識に不可欠な距離は、わたしたちの意識において如何なる現れをもつのであろうか。

だれかの身体を傷つけることが「法」によって保証され、かつ、その「権利」が「わたし」に与えられ、さらに、その行為が非常に興味深いものである仮定した場合、「わたし」にそのひとの身体を傷つけようとする手を控えさせるものは一体何であろうか。?「わたし」が、自分の手を控えるのは、そのひとの「人格」が貴いからではない。なぜなら、もし身体を傷つけても、「人格」の貴さは以前として無傷のままであるからである。したがって、「わたし」が自分の手を控えるのは、そのひとが善人であるからでも、高貴であるからでも、重職にあるからでもない。それでは、「わたし」は、なぜ自分の手を控えるのであろうか?それは、「わたし」が、もしそのひとの身体を傷つけたら、そのひとが「他者」から悪を蒙ったという意識のために、「魂が引き裂かれる叫びをあげることを私が知っているからなのである」(「人格と聖なるもの」、強調筆者)。「わたし」のうちなるこの「他者の知」こそが、「わたし」に自分の手を控えさせるのである。では、「わたし」は、なぜこのことを知っているのであろうか。それは、たとえどのようなひどい経験をさせられようとも、たとえどのような不可能性に直面しようとも、「他者」は私に「悪」ではなく「善」をなしてくれるに違いないと期待する「なにものか」が、わたしたち万人の魂のうちにあるからである。人間のうちにあって貴いのは、否応なく「善」を期待をしてしまう、だからこそ「不正義」に接すれば「なぜなのか?」と問わざるをえない、わたしたち万人の魂のうちなるこの「なにものか」なのである。

「証言」の時代の「証言者」たちは、なぜ、できれば眼を閉じてしまいたい、忘れてしまいたい、魂が沈黙を迫る、自らの地獄の経験を「証言」しようと決意したのであろうか。それは、もし、同じ「不正義」に接すれば、必ず、「なぜ、他者はわたしに悪をなすのか?」、「なぜ、わたしは不正義を蒙らなければならないなか?」という問いを他者に向けて発せざるをえないからである。万人がもつであろう、この究極の「共通感覚」に訴えかけようと、証言者たちは命がけで証言するのである。それにもかかわらず、彼ら/彼女らを「二重の疎外」に直面させたわたしたちの責任は、単にわたしたちが自らの安易な「想像力」のうちに彼ら/彼女らの証言の言葉を回収したということに留まらない。わたしたちの責任の最たるものは、「金銭」による保証という彼ら/彼女らの「権利」を前面に押し出すことで、この「権利」という「騒音」によって、彼女たちの魂の奥底のもっとも貴い部分から発せられる叫び声をかき消そうと意図したということである。このことは、日本軍「慰安婦」問題において、今現在も持続する「不正義」であるといえよう。「市場でぶしつけな買い手から、卵を買い叩かれた百姓は、こう答えてやることができるだろう。〈いい値で買ってくれないなら、卵を売らない権利だって私にはあるのだ〉と。しかし、力づくで淫売宿に入れられそうになっている娘は、自分の権利を語りはしないだろう。こうした場合、権利という語は意味がなく、滑稽なものに思える」(「人格と聖なるもの」)。

III.

ところで、ごく当たり前の認識、自分が苦悩することは他者も苦悩するのだという認識を、なぜ、帝国の支配者は把持できないのであろうか。それは、帝国の支配者のもとにひとびとが集まるのは、ただただ、そのかれの力という「偶像」のためだけであり、「愛」によってではないことを、なによりかれ自身が知っているからである。それゆえ、帝国の支配者は、ひとし並みに、権力を手中に集め、自らが思うがままでに権力を振る舞える「平和」を、この形容詞を抜いた形で標榜する。このことは、通常、政治の原理であり、政治の原理はヒューマニズムとは区別されるべきものであると看做されている。だが、ヴェイユは、この政治の原理を決して自明なものとせず、こうした制度は今まであったことはない、と大胆にただし書きをした上で、他者の存在と距離を取らせ、その存在を美しいと感得し、共苦の愛の働く制度としての場を政治の世界にも構築することを説く。「政党の廃止」を求める彼女は、政治においても、個が摩滅する集団の思考、「他の思考」によって思考することは決して許されないと看做すのである。民主主義を声高に、暴力に対置させる形で提起するのであれば、それは新たな暴力の似像にほかならない。ルソーが述べる、特殊意志に対する一般意志の優位は、一般意志が特殊な欲望を中和し、相殺する場合に限られる。

帝国の支配者が帝国の支配者であるかぎり、恐怖や敗北や愛する近親者の死といった、「不正義」に接して、魂が引き裂かれるような叫び声をあげるということ以外に、かれらが暴力の行使を停止することはありえない。このことを、「帝国」の歴史は雄弁に語っている。そして、すぐれたギリシャ悲劇は、この唯一性を主題にしてきたのである。そうであるならば、ここで、ヴェイユが短命ゆえにその理論を展開することができなかった、彼女が賭けていたものを安易な推測に押しとどめることを避けるために、優れて、政治の舞台でもあったフォソクレスの『アンチゴネー』を、ヴェイユの思想を念頭に置きつつ考察してみることは、わたしたちになんらかの示唆を与えてくれるのではないかと思われる。そして、近代的自我というものが、捨て去るべき障壁にほかならないという確信に到達していたシモーヌ・ヴェイユ自身は、ヘーゲルやニーチェのように屈折した形でなく、正義を体現する唯一の場として、ギリシャ悲劇が展開する世界を看做している。

ソフォクレスの『アンチゴネー』は、古来から現代に到るまで、あらゆる方法によって論じられてきた。この悲劇が、このようにわたしたちを惹きつけてやまないのは、なぜなのだろうか。それは、この作品が、単に、登場人物の状況が「普遍妥当性」を有するという理由に留まらない。「悲劇」という逃れられない運命の苛酷さの直中にありながら、ひとがその運命の苛酷さに敢然として立ち向かうとき、現象としては「絶望」以外のなにものでもなかったとしても、そこに「垂直の方向性」、つまり、「死すべき人間」という有限性を超える光ともいえる「なにものか」が注してくるのを感得せざるをえないからである。そして、また、この「なにものか」は、私たちの「意識」を遥かに超えたものでありながら、わたしたちの「意識」は、この「なにものか」を把持したいという欲求を押さえることができない。それゆえ、わたしたちは、この作品を目の前にしたとき、己の知られざる己に出逢うために、隠された真理に出逢うために、この作品の世界を解釈するという「不可能性」へと一歩踏み出さざるをえないのである。

さて、『アンチゴネー』という作品が全体として、現代に生きるわたしたちに提示するものは一体何であろうか。それは、デカルト以来の「考える我」の「意志」が、己の「自由」において発動される「決意」は、本当は、決して自由ではない、ということであろう。すなわち、「愛を分かち合う」という「正義」に則るかのように思われるアンチゴネーの「決意」も、一切の己の傾向性を廃し、国家の「法」への従順という「正義」に則るかのように思われるクレオンの「決意」も、その「決意」による行為の「結果」を目の前にしたときには、彼らは、決してその行為の結果に「同意」することができないのである。このことは、一体なにを意味するのであろうか。

まず、アンチゴネーの場合を見ておきたい。兄弟を共に等しく弔うために、兄弟と共に等しく愛を分かち合う(すべてのひとびとと愛を分かち合う)ために、アンチゴネーは、国家、法、王という「力」に抗して、己の死を賭けて、ポリュネイケースの遺体を弔うことを「決意」する。だが、この行為の結果である己の死を目前にしたとき、アンチゴネーは、「十字架上のキリスト」と同様に、「なぜなのか?」、「なぜこのような目に合わなければいけないのか?」と、「不正義」に接してほとばしり出る嘆きの叫びを挙げざるをえない。このことは、わたしたちが無へと、死へと、己を投企することが不可能であることを提示しているといえる。だがそれだけに留まらない。この究極の場面において、アンチゴネーとは対照的に、国家、法、王という「権力」を前にしたときに、アンチゴネーの行為が「正義」だと分かっていても、それを言明することも、それに対してなんら働きかけることもできない大衆という人間の「量」に、アンチゴネーが直面したとき、「決意」の時点では決して揺るがなかった彼女の「正義」の確信が揺らいでしまうのである。このことは、彼女の「意識」のうちのどこかが、「正義」ではなく、大衆の「不正義」の側に捉えられてしまっていることを意味するといえる。だから、彼女は、数々の歎きの言葉を発し、自分の行為が「正しいでしょう?」と「沈黙」の大衆に向かって問わざるをえないのである。したがって、アンチゴネーが己の情念(パトス)に捉えられてしまうのは、ポリュネイケースの遺体を弔うことを決意したときではなく、究極の場面において、多勢を前にして、たっとひとりで己の正義を信じるという営みを遂行することができなくなってしまうところにある。

他方、クレオンは、姪のアンチゴネーはもちろんのこと、息子のハイモンの死さえも、彼が「正義」と想いなす国家の法への従順のためには従容として受け入れるかのごとくに思える。だが、ここに「自己欺瞞」がある。ひとは、「正義」のために、肉親の死をも甘んじて受け入れなければならない場合があるかもしれない。しかし、この場合、死に追いやられたそのひとたち以上に、親しいひとびとに手をかけるその本人は、究極の苦悩を余儀無くされるはずである。しかし、預言者テイレシアスの言を聴くまで、クレオンには少しも痛みを感じるところはない。もし、『オイディプス王』を『アンチゴネー』と連続的に見るのであれば、クレオンは、オイディプスに濡れ衣を着せられても従容としていた。それは、オイディプスを愛しているからではなく、オイディプスに権力があるからである。そして、従順であったクレオンが一国の覇者となり、力を自らの手中にするとき、その力への固執がかれの見えている眼を盲目にし、かれの聞こえている耳を聞こえなくする。このように、道徳律に従順な、善良であるかのような「アイヒマン」が誕生するのはいとも容易い。こうして、クレオンは、「神々の掟に倣うのは正しいこと」というアンチゴネーの正義の言葉にも、ハイモンの親を想う愛の言葉にも決して耳を傾けることができない。おそらく、彼らがどんなに「善いこと」、どんなに「美しいこと」を語ったとしても、クレオンにとってそれらは「沈黙の言葉」でしかない。なぜなら、このとき、クレオンは、自らを権力である「力」の側に位置付け、アンチゴネーとハイモンは彼の目にとっては、この「力」の前に佇む「もの」でしかないからである。「もの」が何を言葉にしてもそれは沈黙でしかない。他方、先のテイレシアスの言葉にだけは耳を傾けるのは、自らの「力」の不動性が揺るがされる、という理由であるにすぎない。このように、クレオンは、己の「力」への威信ゆえに、その「力」に捉えられ、情念(パトス)から逃れることができない、という自己矛盾の陥穽に陥るのである。そもそも、彼が従順であったのは、国家の法ではなく、己の情念(パトス)であったのである。そして、クレオンがアンチゴネーとハイモンを、「もの」ではなく「人間」であると、つまり、彼らが実在しているのだという感情を取り戻すのは、彼らと妻エウリュディケーの死に直面してからである。彼らと妻の「不在」に接して、つまり、「死という現前」に接して、クレオンは自らの行為が「正義」に則ったものではなく、「不正義」に則ったものであることを知るのである。そして、彼の「決意」を可能にさせていた、国家の秩序、王の威信の把持という唯一の「動機」は、結果に直面してはじめて不在であったことを知るのであるが、行なわれてしまった行為の結果は厳然として目の前にある。彼の魂は、その行為をなさなかった過去へと還帰するのであるが、妻と息子の死は戻ってはこない。このように、行為の結果まで見通したはずの「決意」は、実は、己の「想像力」が耐えることができる範囲での結果の責任しか負っていなかったのである。そもそも、クレオンの場合、この「決意」そのものが存在しなかったのである。

このように、アンチゴネーにおいても、クレオンにおいても、「決意」は自由を保証しない。だが、それでも、クレオンとは対照的に、アンチゴネーの絶望にはその絶望を超えた「何ものか」をわたしたちは感得せざるをえない。前述の「憎しみではなく愛を分かちあうために生まれてきた」いうアンチゴネーの愛の分有は、ハイモンとエウリュディケーがクレオンを呪うのとは対照的に、「かれらに自分のような不幸が訪れないように」と、彼女に手をかけるひとびとにまで徹底されている。この狂気ともいえる全き無私性は、ひとつひとつ虚偽のヴェールを剥ぎ取ったとき、おそらく万人の魂の奥底に眠らされているものに違いない。そして、さらに、夫や子であればそうしなかった、「兄弟の弔い」をアンチゴネーに決意させたのは、この兄弟の唯一無二性だと彼女が主張していることにこそ「愛の狂気」の所以が見出せるであろう。夫なら別の夫、子なら別の子を得ることができるが、父母なき後の兄弟は他にはありえないという、人間という実在への愛の「質」が、その「量」によって変容を蒙るはずはない。そうではなく、ここでは、本能的に愛すべきひとではなく、死者であり、自分の魂を引き換えにしてまでは愛することができないひとに愛を傾けることにこそ意味があるのである。

わたしたちが、アンチゴネーのうちに、己を超えた「何ものか」を感得せざるをえないのは、「正義」の行為が、その徹底性ゆえの美しさを伴うからにほかならない。妹のイスメネーは、アンチゴネーの気性の激しさ(愛の激しさ)とは対照的に、どこにでもいる優しい、内気な気質をもつ娘である。しかし、この優しい、内気な気質は実は、「自己愛」を保持するものにほかならないことをアンチゴネーは鋭く看破しているといえる。イスメーネーは、ポリュネイケースの遺体を弔うという、アンチゴネーの狂気の「決意」に接したとき、その行為がたとえ「正義」であったとしても、「力」の前では「力」という「不正義」に従うしかないのだとアンチゴネーを説得する。他方、アンチゴネーが捕らえられたのちには、イスメーネーはアンチゴネーと共に死ぬことを望む。このことは、一見、彼女が正義の行為をなしているかに見えるが、実は、「力」(法という「力」とアンチゴネー亡き後ひとりでは生きていけないという他律的状況の「力」)に従順であるにすぎない。両者とも、とりわけ後者がたとえ自らの死を賭するものであったとしても、なんら「正義」の行為とは関係がない。つまり、イスメーネーは自らのうちなる「善」に突き動かされて行動しているのではなく、プラトンの言葉に倣うなら、社会という「大きな動物」の意見に従って行動しているのである。それゆえ、弔いの中止の説得に対して、アンチゴネーは彼女の行為を隠蔽する必要などなく「公にするがいい」と息巻くことにより、イスメーネーの「不正義」を強調しているのであり、アンチゴネーと共に死ぬことの希望に対しては、死んだ兄弟たち、父母たちと愛を分かち合う資格がイスメーネーにはない、と断罪するがゆえに、「生を選択しなさい」と述べるのである。

この彼女の「正義」の徹底性、そして、この徹底性にもかかわらず、最期の瞬間にはこの「正義」の確信が揺らぐという人間の脆さが、共に、わたしたちに、悪のただなかにあっての善の微少性とそのか弱さ、そしてそれにもかからず、確かにこの善が存在しているという確実性を示しているがゆえに、わたしたちはこの作品に魅せられつつ己の生を歩むのではないであろうか。

IV.

『アンチゴネー』を考察することを通して、ヴェイユが賭けていた政治理論を漠然とイメージすることを試みたが、アンチゴネーの「愛の狂気」こそ、実はわたしたちの純粋意識は渇望しているとヴェイユは看做していたといえる。

ところで、「他者」が実在しているという感情を、わたしたちは、どのようににして把持するのであろうか。「対象」に対して「無関心」ではなく、「対象」に対して「関心」をもちながら、しかも、自らの「所有」とすることを欲することのないものが、この世界にたったひとつだけある。それは美である。わたしたちは、美に接したときだけは、この美を所有することなく、この美と距離をとることによって「適意」をうる。そうであるから、「他者」が実在しているのだという感情は、美の感情として、わたしたちの魂のうちにたち現れるのである。これこそが、この世界に生きるわたしたちにとっての「詩」であるといえよう。しかし、美は善の象徴だとする古来の形而上学とのヴェイユの差異は、彼女が美をつまり善であり正義であるものを、「不幸」と「儚さ」の二極においてのみ見い出しているということである。そして、すべての力を剥奪された、「不正義」を蒙った、極限に面した経験をもつひとびとの魂は、いかなる権力意志からも解き放たれているがゆえに、「美しい」のであるが、このひとたちの言葉は、畑でにんじんを盗んだホームレスのひとが、「軽犯罪の裁判所で雄弁に語る裁判官を前にしてもごもごと口籠るように」(「人格と聖なるもの」)、「沈黙の言葉」としてしか現れえない。

「他者」と出逢うということは、「他者」の言葉を理解するということに還元されうる。だが、この言葉の理解というのは、その意味が分かるということではない。「不幸は唖である」(「神への愛と不幸」)、「サバルタンは語れない」(スピヴァック『サバルタンは語れるのか』)状況が一歩前進して、正確に、簡潔に言語化しえたとしても、しかし、実のところ、「だれだって、自分の欲望や考えや苦しみをちゃんと正確に表現できるものでもないし、それに人間の言葉はひび割れた鍋みたいなもので、これをたたいて星を感動させようと思っても、熊を踊らすメロディーしか出せないのである」(フローベル『ボヴァリー夫人』)。わたしたちが誰かと共苦しようと欲するのは、そのひとの言葉を認識できたからではない。そうではなく、そのひとの存在が脆くそして美しく、守りたいと思うからである。そうしなければならないという義務に突き動かされて行動するのではない。そうしたいという、歓びを伴う欲求に貫かれて行動するのである。この感得ができず、共苦の可能性を断ち切る、「権利」を前面に押し出すひとびとは、実はこのひとたちの魂が自らが振るう力によって根こそぎにされているのであるが、かれらはまさしく根こぎにされているがゆえにこの事実に気づくことができない。わたしたちは、儚い、脆い、あらゆる権力意志を剥ぎ取られた「沈黙の言葉」のうちに声を聞くことができるのである。美には語る言葉はない。けれども、美には呼びかける声があるからである。

 正義は、「脆さ」の衣を纏い、また、この正義が脆いからこそ美しい。この美の顕現される通路が構築されるために、「民主主義」、「権利」、「人格主義」が本当に実現されるために、「愛の狂気」が働く場である「詩」という仲介が絶対的に不可欠なのである。この仲介なくして、上記の言葉が標榜されるとき、人間のうちにあって、「もっとも貴いもの」、「もっとも儚いもの」、「もっとも守るべきもの」が死滅してしまい、「民主主義」、「人格」、「権利」に到る通路が遮断されてしまうのである。そして、安易にこれらを標榜するひとびとは、みずからが根こぎにされている有り様、権力意志なしでは生きていけない悲惨さを見つめ直し、特権の自明性が少しでも軽減できるよう、「他の思考」によってではなく、「自ら思考」によって言葉を紡いでいかなければなるまい。

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