「正義」を為すとは、何を為すのだろうか?
          from "to bring them to justice," to "doing justice to them"
                               岡野八代


[0] 「正義」との出会い/ 従軍「慰安婦」問題との出会い:「遅れる正義」
 
 (i): わたしにとっての従軍「慰安婦」とは?(#資料)
  五〇年ものあいだ、語ることのできなかった(戦時性暴力の被害者という)自らの過去に苛まれ続けていた女性たちの存在に、気づくことが「遅れていた」。この気づきの「遅れ」とは、何だったのか、そして、この「遅れ」から戦後責任の問題を考える。
 =多くのレヴィナス論からの示唆: 「他者に正義を返すこと」

          他者に正義を返すことは、この意味で無限の時間を必要とし、無制限に他者に開かれていなければ
      ならない。/ しかしそれは、「責任の限界」、誰にどの程度正義を返すべきかという判断を免れるわけ
         ではない。とはいえ、これは責任が制限されるということではなく、まして責任の埒外に置かれた他者
         を認めること、すなわち事前に他性が制限された他者を認めることでは決してない。他者に正義を返
         すことは、正義を返すことのできる他者を、あるいは返すことのできる正義を発見することではないか
         らだ。程度問題を質の問題に置き換えてはならない。それは、極限の要請なのだ。/ しかも、それは
         必要である。必要を語る言説の暴力に震撼しながらも、もう一度このことを語らなければならない。正
         義が決して届くことのなかった他者がいたし、いるからだ。記憶の容量を超え、記憶されることのない
         他者の歴史があるからだ。正義が測られるのは、測ることのできない他者とその歴史を前にしてであ
         る[中島隆博「他者に正義を返すことーーアレントとレヴィナスの倫理-政治」『現代思想』1995 年,vol.
         23-4, p. 387]。

  (ii): 2000年女性国際戦犯法廷にて
 「わたしたちは、正義が欲しいのです。わたしたちは日本の政府に責任をとってもらいたいのです。わたしたちがいま述べていることは、真実です」[エメラルド・ボエさんの言葉「認定の概要」『世界』より]。

→正義を為すことが、ある特定のルールの下で、そのルールに公平に従っているのか、逸脱していないかどうか、という問題に縮減されてしまっているのではないか?
→「正義」が届かない他者の存在に対して、「正義を返す」といった視点はこれまでにはなかったのではないだろうか?
→だが、そもそも「正義を為す」とは何を為すのか?
 
[1]「正義」とは何か?

 
(i): 思想史的に
  *プラトン=それじたいで善きこと(それぞれの卓越性が実現された状態)
  *アリストテレス*1=平等/ 均等に関わる(他者との関係)=人びとのあいだに均等   をもたらす
        「等しい者を等しく、等しくない者を等しくなく扱う」。
  *ホッブス=他者との約束を果たすこと
      (善/ 所与の価値から切り離された社会契約)
  *ミル*2=理性的存在が採用する、かれら・ 彼女たち全体の利益に役立つ準則
            (権利の侵害に対する処罰と被害者への共感)=平等な幸福追求権
  *ロールズ=自律した人格相互が確立しうる社会の構成原理
      (善と正の分離)
                                    ↓
ある第三者的な基準(イデア、自然法、原始的契約、「最大多数の最大幸福」、原理)によって、ある事柄について、その事柄に係わるその人の属性あるいは行為の質を判断し、人と人とのあいだに、「正しい」関係を保つこと。
=しかし、実際には「国家(あるいは、ある限定された共同体)」の法とその執行によって、「正しい」関係は保障される=思想史上も正義論といえば、国家論である(プラトンの『国家編』の時代から)。

 (ii): わたしたちが「正義」に訴えるときとは?=ともに、ある出来事の後
                                                     or   不正の後
       注目されなかった「矯正的正義」corrective justiceの側面*3
                                            restorative justice

          金銭あるいは、その他の財をもってしても、それはせいぜいのところ、その侵害行為の後の不作為と沈黙とを終わらせるにすぎない。さらには、金銭は、失われたものとは通約不可能であり続ける。たとえ理念の上でさえ、そして、言うまでもなく実際上は、賠償は侵害以後の被害者の回復、あるいは[彼女たち/ かれらがそれ以前に結んでいた]社会的関係性の修復には届かない[Martha Minow, Between Vengeance and Forgiveness (Boston: Beacon Press, 1998), p. 102- 103]。

  二つの位相:@実定法からの逸脱/ 権利侵害があったとき。
           A「不正」だと誰も認めてはくれない/ 「不正」だとは告発できない出来事の被害に出会ったとき。
                     =従軍〈慰安婦〉問題はこちらの問題
さらなる困難:時間的制約
       何が正義の領域かを判断するのは「国家」が独占している*4
          (司法モデルの成立?=正義の質の制限へ)。

          確かに、従来の司法の枠組みからいえば、法廷はおよそ"非常識な"法実践の場であったといえるかもしれない。しかし、このような"常識"に基づく法廷批判は、わたしたちの思考が国民国家の枠組みからいかに自由でなかったかを逆に示しているのではないだろうか。むしろ、そのような批判を読み込んだうえでの法廷の実践は、「裁き」を国家権力だけが独占してよいのか、国家権力が犯罪の主体であった場合誰が裁くのか、という核心的な問いを逆照射する[金富子「女性国際法廷が乗りこえたものと乗りこえなかったもの」『現代思想』2001年, vol. 29-6, p. 208.] 。

問い:それでもなお、「正義justice」に訴えるのは、何故なのか?
      =何が自分に起こったかを他者に向かって安全に言える状態を求めて(法廷)
   「正義」の持つ力とは何なのか?
      =不運ではなく、社会の構造あるいは、人為によってもたらされた出来事であることを訴えるため/ 
             変革可能性を求めて
   「正義」と「不正」は、対概念か?
      =少なくとも、「不正」を生む構造をいかに除去するか、という「正義」はあまり語られてこなかった。

[2] 不正の後、不正義の感覚(=不平等な社会から生じる)から出発する正義論へ

 
正義が「遅れてやってくる」ことを前提にし、そのうえで正義に訴える(「返してくれ」「正義が欲しい」)声に応えることとは?

doing justice/ (1) (認めるべき点は認めて)人[もの]に正当な取り扱いをする, 人[もの]を公平に評する。  
                   (2)  人・ものを 実物どおりに表わす。

          苦痛の原因がなんであれ、わたしたちがその苦痛をいやすことができるとき、ただ傍観し何もしないことは、受動的にではあれ不正を行うことである。わたしたちが、ある災害を前に、何もしないでいることを正当化できるかどうかを判断するのを可能にしてくれるのは、危害の原因ではなくて、危害から生じる苦痛を避けたり、軽減する可能性である[J. Shklar, Faces of Injustice (Cambridge: Harvard University Press, 1988), p. 81]。

[3]アメリカ合衆国「の」正義?

@第三者的審級といった「正義」にとって最も重要な要素をまったく無視。
 =被害者すべてを、国家的被害者へ
 =その上で、被害を受けた「アメリカ合衆国」が裁く、という矛盾
  (戦争というレトリックによって正当化)
ブッシュ大統領一般教説より(1/29/2002)
Our nation will continue to be steadfast and persistent in the pursuit of two great objectives. First, we will shut down terrorist camps, disrupt terrorist plans, and bring terrorists to justice.
=といいながら、
Even 7,000 miles way, across oceans and continents, on mountaintops and in caves--- you will not escape the justice of this nation.

Ajustice の場は、米国軍事法廷である。= 国際法廷で、容疑者の声を公開で聞くというjustice の可能性には、否定的。

Bアメリカ合衆国がその者たちに「不正」を働いたのだとは思いも寄らない被害者の声を聞くこと、彼女たちに doing justice することなど念頭にない。

 


*1  整正的正義についてのアリストテレスの議論より
「裁判に訴えると言うことは、「正しき」に訴えるということにほかならない。裁判官(ディカステース/ 正しきをつかさどるひと)はいわば生きた「正」たるべき意味を持っているのである。その際ひとびとは裁判官が「中」的であることを求めているのであって、或る地方では現に裁判官のことを「メシディオス」(=中を得るひと)と称している。「中」を得ることによって「正」を得るだろうというといわけである。それゆえ、裁判官の場合が示しているように、「正」とはやはり或る意味での「中」なのである。、、、「均等」とは、ここでは、算術的比例に即しての、多と少との「中」にほかならない。「正」dikaion という名称の由来もここにある。それは切半的dichaion とでもいうほどの意味ーー切半されるのだからーーであり、裁判官dikastes とは、すなわち切半者dichastesを意味している」[『ニコマコス倫理学』1132a]。

*2 「正義」もまた、効用と関係があることを語るときのミルの議論より
「何が正しいかについては、何が社会にとって有用であるかについてと同じく、多くの異見があり、多くの議論がある。(例:見せしめのための処罰は不正だ。分別のつく人間をそのひとの利益のためという名目で罰するのは圧政である。そもそも処罰は不正である、等々ーー引用者ーー)。、、、功利を基礎とする正義がいっさいの道徳の主要部分であり、比較を絶したもっとも神聖で拘束力の強い部分だと私は考えている」[『功利主義論』第五章]。

*3 たとえば、ミルの次の一節。
「社会的便宜として公認されているものが逆のことを要求しないかぎり、だれもが平等の待遇を受ける権利があるとみられている。だから、もはや便宜でなくなった社会的不平等はすべて、不便を通りこして不正の性格を帯び、いかにも圧倒的にみえるので、人々はどうしてこれまでこんな不平等がみのがされてきたのかと不審に思いやすい。ところが不審がる人々自身も、おそらく、同じように便宜を誤解して別の不平等を見過ごしていることを忘れている。、、、社会改革の全歴史は移行の連続であり、社会的生存に何より必要と考えられた習慣や制度が次から次へと、あまねく不正と抑圧の烙印を押されてゆく。奴隷と自由人、(中世的封建社会の)貴族と農奴、(古代ローマの)貴族と平民の区別がそうであった。皮膚の色、人種、性による差別待遇についてもやがてそうなるだろうし、また一部はすでにそうなっている)」[同上]。とここまで述べながら、見過ごされてきた人々の「現在」については、言及なし。また、社会変革を促すのは、便宜が不便になったから、という説明のみで事足りるのかが曖昧。

*4 このことから生まれる「正義」に対するニヒリズム(「所詮強者の論理」)
=おめでたいソクラテス(トラシュマコス)
「その支配階級というものは、それぞれ自分の利益にあわせて法律を制定する。たとえば、民主制のばあいならば民衆中心の法律を制定し、僭主制のばあいならば僭主中心の法律を制定し、その他の政治形態のばあいも同様である。そして、そういうふうに法律を制定したうえで、この、自分たちの利益になることこそ、被支配者たちにとって〈正しいこと〉なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する」[『国家編』 338e]
「最も完全なかたちでの「不正」こそは、それを犯す当人を最も幸せにし、逆に「不正」を受ける者たち、それを犯そうとしない者たちを最もみじめにするものだからね。僭主のやり方が、ちょうどこれだ。それは他人のものを騙し取るときにも、力ずくで取るときにも、狙う者が神物であれ、個人のものであれ、公けのものであれ、少しずつ掠めとるようなことはせず、一挙に大規模に奪い取るのだ。こうした所業は、もしその一つ一つを単独に犯せば、発覚したときに最大の罰と非難をこうむる。事実、神殿荒らしとか、人さらいとか、土蔵破りとか、詐欺師とか、盗人とか呼ばれるのは、小規模なやり方でそういう悪行のどれかを一つを犯す連中だ。ところが、いったん国民すべての財産をまきあげ、おまけにその身柄そのものまで奴隷にして従属させるような者があらわれると、その者は、いま言ったような不名誉なものでは呼ばれないで、「幸せな人」「祝福された人」と呼ばれるのだ」[同上、334a]。

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