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第一章 有田はいつどうして出来たか
(一)泉山磁石の発見
 有田には古くから源為朝の黒髪山大蛇退治の伝説や唐船城の松浦党有田氏のことなどが語りつがれているのだが、この町史物語では今の有田町やその周りが何時どうして出来たのか先ず考えてみよう。

 焼物の里有田の起こりは元和二年(一六一六)の李参平の泉山石場の発見からとなっている。そこで、最初にこの李参平の足跡を追うことにする。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略(当時は征伐と言っている)戦争は文禄元年(一五九二)四月に始まって、翌年には和議が成って軍隊も引き揚げている。この戦争を文禄の役と言う。だが、この平和は三年しか続かないで、慶長二年(一五九七)一月、再び朝鮮へ出兵している。
即ち慶長の役である。

 文禄の役では、鍋島直茂の佐賀軍は伊万里港から出発、加藤清正軍に従って朝鮮の東方面、即ち日本海側を北上して北緯三十八度緑を越えている。慶長の役では、直茂にその子勝茂も従軍して今度は西方面、即ち黄海側を北上した。慶長三年(一五九八)八月には全羅道の全州を陥れている。そして、更に忠清道の公州を目指して進軍した。黒田長政の筑前(福岡)軍は左を進み、鍋島軍は右を進んだ。その途中公州の手前の東南に当たる鶏竜山付近で出会った韓国人三人に道案内をさせた。その間に公州は黒田軍によって陥落した。だが、八月に秀吉が死去した為、引揚げ命令が出されたのである。

 引掲げに当たってこの三人の道案内の功を労った上、その職業を訊ねた処二人は農業と答え、一人は土から陶器を作っていると答えた。これが李参平である。このように日本軍に協力した為、引揚げた後で報復されるかも知れないから、一緒に日本に渡って製陶の業を続けてはどうかと鍋島軍から勧められて、李参平はためらわずにそれに従った。そして、その他の陶工など数十名と共に同行することになったのである。物の本にはこのことを連行されたと書いたのがある。この連行と言う語は、本人の意思は考えないで強制的に連れて行くと言う意味である。だが、李参平の場合は決して強制したのではなく、本人もそれを希望したと推測されるからこの物語では同行とするのである。  鍋島軍が、李参平をリーダーとする陶工達と共に伊万里港に帰り看いたのは十二月初めだった。この陶工達は鍋島軍の参謀長格の多久安順の軍勢と同船していたので、李参平はその一部十数名とこれに従って佐賀へ向かった。他の者達は乱橋(三代橋)辺と武雄領の板野川内に住み着いた。

 乱橋には文禄の役の時連行されたと言う七十五人の韓人陶工達が窯を開いていたのに合流したのが一部で、他の一部は武雄領の内田村に既に多数の同国人達が開窯していると聞いてそこを目指した。だが、その道中で良い原料でも発見したのか、内田まで行かないで板野川内に定着した。

 李参平はこの時二十才だった。一員は佐嘉城まで同行してここで帰化することになった。出身地忠清道鶏竜山の金江州(一般には島とも称した)の金江をとって金ケ江とし、参平の名を三兵衛に改めた。しばらくは佐嘉城下に住んだ。だが、言葉など不自由なので同船した縁で多久安順が預かることになって皆多久に移った。

 多久では領主安順の計らいで後では唐人古場と称した辺りで窯を築いて色々試みた。だが、気に入った器が出来ないので、高麗谷や大山など転々として製陶に従事した。多久の人達は良い焼物だと褒めてくれたが、もともと白磁を作りたい三兵衛には満足出来なかった。その頃彼は安順の世話で日本の女と結婚するなど手厚い保護を受けている。
 慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦争で大勝した徳川家康の天下になって同八年(一六〇三)には江戸に幕府が出来た。佐賀では同十三年(一六〇八)に竜造寺から鍋島に主が変わって鍋島藩が確立している。そして、元和元年(一六一五)には、今まで有田氏の領地だった有田郷一帯は藩命で多久安順の支配の下に置かれることになった。

 これを機会に以前から磁器の原料を探したいという三兵衛の願いを安順が許したのだろう。一行十八名で乱橋へ向けての三兵衛の探索の旅が始まった。有田郷乱橋一帯、即ち乱橋、黒牟田、小溝、清六の所々には文禄の役後に移住した組に、慶長の役後金江島からの連中が李参平と別れてここで製陶を続けていたからである。

一行は先ず板野川内に定着している同郷の陶工の許に草鞋を脱いで十七年ぶりに会っている。それから泉山の隠道から小樽を通って大谷、岩谷川内を経て乱橋に到着した。早速田畑を開墾しながら窯を築いている。この窯は幅が三尺五寸(一米余)の小さなものだった。半年ばかり色々と焼いてみたものの彼が求めている白磁器とは程遠い陶器しか出来なかった。

 そこで、彼は一人で板野川内に戻って、ここを根城にして付近の山や野を磁器になる石を探して回った。そして、遂にこれはと思う石を発見したのである。場所は堺松の付近、即ち泉山の石場だったのだ。早速板野川内で試みに焼いたところ、正に彼が求めるものであった。元和二年(一六一六) のことである。
 彼は直ぐ板野川内から連れて来た者達と窯を築いて磁器の製造を始めた。これが小樽古窯である。石場には近いものの、小樽は水の便が悪いので、適当な所を求めて付近の山野を歩き回った結果川に近い天狗谷を選んだ。そこで、白磁発見のことを多久安順に報告すると共に、乱橋や多久に残して来た者達を呼び寄せ、それに小樽から付いてくる者を加えて天狗谷に窯を開いた。

 しかし、移るのを断わったのか、或は三兵衛の指示によってか若干の陶工が小樽古窯に残った。現在中樽墓地に残っている「高麗国帰化陶工開祖の墓」とあるのに眠っているのが、小樽に残った帰化陶工達である。

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