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第一章 有田はいつどうして出来たか
(二) その周りの状況
 後では内山と称ばれる地域はその東の端、即ち隠道の山中に数軒の人家があるだけで田中村と称していた。又、外山と称ばれるようになる一帯は、西端に当たる清六、小溝、乱橋、黒牟田の辺りには前に述べた通り一五九三年頃から韓人陶工達が開墾しながら陶器を作っていた。又、その東には既に一つの農業集落が出来ており、南には金山があったのだ。

 石場発見の二十数年前、この外山の東端に当たる荒野に一群の流浪の民達が定着して開拓を始めている。一五九三年からその翌年の間である。

 豊臣秀吉が名護屋城に本営を構えた時、加賀百万石の大守前田利家も徳川家康等と共に秀吉に従って来た。
現在は江北町の一部であるが、佐留志という集落に館があって当時は佐留志城と称していた。この主は前田利家とは先祖が同じの前田伊予守家定である。

 先祖というのは尾張国海部郡前田村の荒子城主だった。鎌倉時代にその子孫に当たる前田忠保は肥前に下って佐留志の城主となった。戦国時代の末には有馬氏に仕えた。後で竜造寺氏から鍋島氏と主を変えている。文禄の役では老齢の為、出征しないで国に居たので、前田利家を名護屋城に訪問して、兵糧などを進物した。利家は非常に喜んで折角だからと秀吉に紹介し謁見させた。

 朝鮮から帰降してこの事を知った鍋島直茂は自分には断わりなしで勝手のことをしたとひどく怒った。

そして、その家禄を没収して追放したのである。一族の一部は姓を野村というのに変えて残った。だが、伊予守以下主なる一族郎党は佐留志を離れて流浪の旅に出たのである。その時の人数ははっきりしないが、所領の禄高が千五百石というから五十名足らずと推察される。

 そして、鍋島氏の力が未だ十分に及んでいない有田郷曲川村の東の荒野にたどり着いて、そこを開拓して一つの農村を作った。現在の外尾町を本拠として丸尾、本町、桑古場、大野、菅野辺りまでの集落だったので、この一帯を新村と称したのである。新村の名は明治二十九年有田村になるまで続いている。
 石場発見の頃か、又はその数年後かに、有田の南西端で長崎県波佐見との境になる古木場一帯に金鉱が発見されてゴールドラッシュがやって来たのである。だが、この金山を探索した幕府の隠密(密偵)の報告によれば、寛永四年(一六二七)にはもう金は産出されていない。鍋島勝茂の年代記によれば、その二年前の四月から翌年十月まで約一年半の間に、金一貫五百二十三匁、銀十三貫八百四十五匁が産出され、山堀り人数はおよそ百人とある。

 隠密報告書には廃坑同然のこの地域に人家は七百戸、町の造りも見事でまるで城下町のようであり、周囲三里(十二キロ)に柵を巡らせ、口屋番所があって出入りを監視している。

金山の坑道は六十もあり、最盛時には六・七千人ほどの人口という。又、金山の繁栄につれて番所の裏の丸山には遊女町が出来ている。そのため、丸山の地名は遊女町の代名詞になって、後年長崎に出来た色町を丸山と称したという話は今も残っている。

 この報告書が正しいとすれば、金鉱発見から僅か二・三年でこんな町は出来る筈はない。恐らく十年近い年月を重ねて出来たのだろう。とすれば石場の発見と同じ時分から始まったと想像出来る。しかし、幕府に届ける時にわざとその期間を短くして、産出量も少なくしたのではなかろうか。
というのは、この届けによって産出した金銀は全部幕府から藩へ下げ渡されているからだ。

 ともあれ、これほど繁栄した金山の廃坑後その労働者達はどうなったのだろうか。一部はこの地に残って農業に従事しており、又は波佐見の金山へ職を求めている。だが、大部分の人はその特技を生かして石場の採石夫になったり、窯焼の荒仕子(雑役夫)などになったのだろう。一面ではこの余った豊富な労働力が創業期の有田の窯業を飛躍的に発達させたとも言えよう。

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