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第一章 有田はいつどうして出来たか
(三)深海家と家永家
 石場の発見で磁器の製造が有田で始まったという情報は武雄領内田村の深海一党にも伝わっただろう。元和四年(一六一八)リーダーの宗伝死去の後、受け継いだ妻の百婆仙は寛永六年(一六二九)に内田で磁器製造を試みた。だが、原料が軟質のため、失敗続きでとうとう磁器は出来なかったので、領主を通じて本藩に願い出た有田移住が許された。そこで、百婆仙は同族工人九百六十人を引き連れて有田の稗古場へ転住したのである。寛永七・八年のことである。

 さて、この深海一党はどうして渡って来たのかと言えば、文禄の役が終って鍋島軍が引揚げる時、鍋島軍の奉謀長格だった武雄領主後藤家信が藩主の命令で、慶尚道金海から連行したのが深海宗伝である。
この役に従軍していた武雄広福寺の別宗和尚と一緒だった。その頃日本名を新太郎と称していた宗伝は別宗の徳を慕って仏門に入ったので、別宗から宗伝の法号を授かったのである。

 数年間は広福寺の門前に住んでいたが、家信から内田に土地を貰って陶器を焼いた。その時日本の姓を与えようと出身地を訊ねた処「シンカイ」と答えたので、シンカイ即ち深海を姓として与えた。だが、深海という地名は朝鮮には無いから、中島浩気氏は宗伝がキンカイと発音したのを後藤の方でシンカイと聞き間違ったのだろうと推理している。ハングル音では金と深とはよく似ているという。

 有田焼の起こりに韓人の金ケ江一党と深海一族とが主な役割を果している。

だが、韓人でない家系がもう一つある。それは家永家である。佐賀郡高木瀬村の土師(瓦や土器などを作る職人)家永彦三郎が藩主の命令で名護屋城の瓦を現地で一手で焼き上げた。その時飯などを盛る土器も作ったとみえる。秀吉は文禄元年四月に名護屋に入城したが、その後大阪を往復したことがあった。その大阪から名護屋への通り道の現在の大和町尼寺の付近で、直茂の継母が握り飯の接待をした時、それを盛った土器が秀吉の目に止って、抹茶碗などの土器を彦三郎に作らせている。その品々が秀吉にはひどく気に入ったのだろう。その年の十二月には家永へ「土器の技術が素晴らしいから、九州名護屋での土器作り最高責任者に命ず」という御朱印状(武将が朱印を捺した公文書)を下した上、壱岐守方親と名乗らせたのである。  その後、朝鮮に渡って鍋島軍の捕虜になっていた韓人陶工の範丘から焼物の技術を口伝えで習得した。そして、直茂の命によって範丘他数名の陶工を連れて帰国した。直ぐ秀吉に拝謁して朝鮮から持ち帰った焼物を献上した上、近くで窯を焼く許可を得ている。この陶工達の出身地は南鮮三浪津近くの金望山の辺りという。

 この後に帰陣した直茂の命によって佐賀の金立山に築窯した。それから間も無く方親は秀吉から頂いた司役(最高責任者)を弟の方辰に譲って自分は筑後の国蒲地村に移って、そこの藩主田中吉政に仕えて献上土器の御用を勤めている。

 金立山には良質の原料が無いので、孫の庄右衛門は慶長末年(一六一四)伊万里郷の藤野川内に移って製陶を始めた。その後有田郷小溝に転居している。そして、泉山石場発見で活気に溢れている内山の白川山に移った。

 安永二年(一七七三)にその子孫が佐賀藩庁に提出した書状には自分達の先祖が石場を発見して白川山の天狗谷という所に窯を築いたとある。
この天狗谷窯というのは、李参平の窯と言われる天狗谷窯ということではなく、その一帯の地名であり明治初めまで家永家の屋敷と工場のあった辺りの意味だろう。その先祖が石場を発見したというのは、窯が李参平の窯と同じ場所だから思い違いしたのではなかろうかと思われる。

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