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第一章 有田はいつどうして出来たか
(四)その他の石場発見説
 この家永庄右衛門の他に名場を発見したと言う人物がもう一人いる。その名を高原五郎七という。それは「酒井田柿右衛門家文書」の中にあるから、現代文に直してみよう。

「覚書の二 享保八年(一七二三)

 高原五郎七という人は豊臣秀吉の家来で加藤清正が文禄の役の時朝鮮へ連れて行ったが、その後大坂方が没落するなどの事情もあって彼は元和三年(一六一七)に南川原にやって来た。そして、その辺の川に明礬が流れているのを発見し、これはきっと上流に上士があるに違いないと考えたので、川筋を伝わって行った処泉山の白土を発見した。そこで、その土で試みに焼いたら南京手の磁器が出来たのである。その業は今日まで続いている。」
 この覚書は李参平の石場発見から百七年後に書かれたものである。明礬によって白磁砿を突き止めたことや、南京手の磁器を作ったということなどは、その他の諸説との関連もあるので次節で述べる。

 この五郎七とは同一人とも考えられる五郎太夫の祖父に当たるという伊東五郎太夫祥瑞という人物が永正八年(一五一一)遺明使に従って明国に渡り、景徳鎮で二年余り製磁の法を習得して同十年(一五一三)に帰朝すとある。この祥瑞が有田焼の開祖だという説が明治初年頃の有田にあったようである。明治六年頃、有田小学校の初代校長江越礼太と当時の有田戸長(明治二十二年の町村制になるまでの町村の首長)徳見知愛とが協力して皿山風土記というのを作って、生徒必読の書とした。

その中に

 「さて焼物の初めより、今に三百七十年(三百六十年が正しい)永世(永正が正しい)頃の其のむかし、五郎太夫祥瑞とて伊勢の人とも支那人ともいふはたしかに知らねども支那の陶器の製造を習い覚えてこの郷の善き其の土を発見し余多の品を造りたる。」とある。

 泉山石場が実際に発見された元和二年よりも百年も前に発見されたというこの説は誤りだと指摘した横尾謙(谷口藍田の高弟)は次の通りに訂正した。

 「朝鮮陣の其の時に、まつろひ来つる韓人の金ケ江村の李参平 小城の郡の多久村に 焼物造り始めしに
 良しき土のあらざれば移りし有田の乱橋ようやく谷間をさかのぼり今の有田の地に来たり 始めて得しは いつまでも尽きせぬ 石の泉山」

 これについて中島浩気はその著書で、先に皿山風土記を作った江越も徳見も共に小城藩士であり有田に移住してから日が浅かったので思い違いしたと思われると言っている。

 だが、一説では祥瑞は石場の磁石ではなく、明国から輸入した磁石で磁器を焼成したとも言う。いずれにしてもこれで五郎太夫祥瑞の開祖説は消えた。又、柿右衛門家文書には五郎太夫ではなく高原五郎七とある開祖説も次節で述べることによっても分かると思うが、これも全く信用出来ない説である。

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