Home Back 07/58 Next

第一章 有田はいつどうして出来たか
(六)有田皿山の成り立ちとその周り
 元和二年(一六一六)から二十年目に当たる寛永十二年(一六三五)までの間は有田の窯業が急速に発展した時期である。どうしてこの年で区切るかというと、佐賀藩領の最西端の山中に突然現われた窯焼のため、その辺りの姿が全く変わってしまったこと。又、この新しい産業が藩財政の支えになるとして、佐賀藩は、有田代官の前身である西目(佐賀西部の意)横目付(監察官)に後で初代代官になる山本神右衛門重澄を任じたからである。

 この五年前には百婆仙が深海一党九百六十名を引連れて稗古場に移って来た。又、同じ頃家永一族も小溝から白川に移住している。それに金山廃坑で失業した沢山の人達が職を求め内外皿山へ流れて来て、金ケ江や深海、家永などの窯に入り込んだに違いない。そして、器用な者はそこで窯焼の技術を習得して自分で窯を始めたのだろう。
独立といっても窯をめいめいで持つのでなく、貸し窯を利用するので、唐臼とろくろがあれば出来たからである。というのは、この二年後に有田郷では日本人陶工を五百人以上(伊万里郷と合計すれば八百二十六人)を追放したけれども、十年後の記録にはその頃でも百五十五の窯焼がいたとあるからである。

 どうしてこんなに大量の整理をしたかというと余りに急速に成長した窯焼達が燃料にするため、無茶苦茶に山野の木を伐り取ったので、辺りの景色も変わってしまったからである。こんなに大量の燃料を使用したからには原料である石場の磁石の採掘もすごい勢いだったに違いない。発見した功績で石場を管理していた金ケ江三兵衛は、その頃では窯焼に専念するため、管理の役を次子清五左衛門に譲るという盛況ぶりだった。

 登窯は丘陵の傾斜に築くから、その地域一帯を山と称するようになった。その頃は、歳木山、小樽山、中樽山、大樽山、上白川山、中白川山、下白川山、稗古場山、岩谷川内山等の内山と外尾山、黒牟田山、応法山、南川原山などの外山が出来上がっている。

 山と称した窯業地の外に当時の曲川村の内乱橋、小溝、清六の辺りには四十年も前から陶器を焼き続けて磁器へ転向しなかった帰化韓人達の窯も残っていた。

 四十年前佐留志から流れて来た前田一党が開拓した新村は豊かな農村になっていて、金山廃坑の後も戸矢、境野、古木場に残ってその地を開墾した人達は新村に合流したのである。
現在の本町、昔の外尾宿は皿山の所属になっている。これは宿場として内山と外山との連絡の場所ということからではなかろうか。正保四年(一六四七)に皿山代官所が設けられてから、行政区分や藩の行政についての法令などが制定されている。石場発見から僅か二十年の一六三五年当時、有田皿山は全国陶産地に先駆けて日本第一の磁器特産地になることが出来たのである。しかもその南西の平地一帯は既に豊かな農村になっていたのである。

Home Back 07/58 Next
Ads by TOK2