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第二章 佐賀藩の保護政策と色絵の始まり
(一)韓人陶工の保護と同化策
 皿山代官所が設置される正保四年(一六四七)より十年前の寛永十四年(一六三七)から、当時の西目横目付山本神右衛門重澄は有田郷や伊万里郷の各所に窯が次々に出来、その燃料にするため山が伐り荒らされていると、実情を藩庁に報告した。

 これを受けた藩主は多久美作守に、朝鮮から渡来した者とその子孫以外で製陶に従事している日本人は追放するよう命令した。美作守は神右衛門に現地を調査させて日本人でも由緒(いわれのある来歴)ある者は藩主に報告した上で、美作守が免許証を与えて残し、その他の者はすべて追放せよと命じた。家永一族は由緒ある者として追放を免れた。だが、それ以外の男五三二人、女二九四人、合計八二六人が追放されたのである。その部落は有田郷で七ケ所、伊万里郷で四ケ所に及んでいる。
 「皿山代官旧記覚書」という記録の中に、多久長門守が朝鮮から連れて来た者の中に暇を乞うて優秀な磁器を焼く者がいた。この韓人が「私が一手に焼きものをしたいので」と、日本人陶工を追放してくれと願い出た。その結果、日本人は窯焼の職を営むことを禁止されたと、ある。ここでいう韓人は正に李参平のことである。

 表面の理由は山林が荒されるのを防止するためとある。だが、事実は、その頃陶技を覚えた日本人が独立して窯焼を自営する者が続出するようになったため、金ケ江や深海等の韓人窯焼を脅かす傾向が著しくなったことを憂慮した金ケ江三兵衛の願い出によるものであった。

 この追放令を実行した山本神右衛門はその十年後の正保四年(一六四七)には初代の皿山代官に任命されている。

それまでの間彼は藩と皿山窯焼との間に挟まれて、藩が要求する運上銀(江戸時代の税金)で若し皿山が存続出来なくなれば朝鮮からの渡来人たちの生活はどうなるかと心配すると共に、藩の財政を支えるための運上銀も増額しなければならぬと大変苦心している。だが、その努力によって双方とも何とか立ち行くように解決した。

 この功によって彼は初代代官に任命された。武士道とは死ぬことと見付けたりで有名な佐賀論語と言われる「葉隠」を田代又左衛門へ口述した山本神右衛門常朝はその子である。

 泉山石場を発見した功績によって、その支配を金ケ江三兵衛は藩から委任されている。従って支配人の彼だけは無税で採掘を許された。他は皆冥加金(税金)として僅かだが上納しなければならなかった。
彼には日本人の妻との間に二人の男子がいて、兄の与助左衛門は専ら製陶の方を担当し、弟の清五左衛門が石場支配の任に当たった。

 そして、板野川内などで彼に協力したその一党三十数名の中から選ばれた七人は金江島の出身だったので、金ケ江の姓が与えられた。他に金江島以外の出身だったのか弥三右衛門というのには徳永の姓が与えられている。又、多久美作守の代になってから多久氏の名被官になって小禄ながら一様に扶持米(給与)を貰っている。名被官というのは役儀を免除された被官(江戸時代、領主や土豪の家来で、屋敷地の一部と田畑を分与されて、手作りしながら主家の軍事、家政、農耕に奉仕する者)で苗字帯刀も門構えも許されている。

 三兵衛以外の金ケ江一党もめいめい日本の女を妻とし、日本名となって完全に帰化した。

だが、文禄の役の時連行された深海宗伝は韓国から妻を連れて来ている。即ち百婆仙である。彼女は明暦二年(一六五六)九十六才で死去しているから、日本に渡来した文禄二年(一五九三)は三十三才の時である。佐賀領に連行された韓人達は宗伝のように妻を同伴した者は稀であったと想像
される。深海一族の主なる者は後藤家信の被官となり、金ケ江一党と同様に日本名を名乗って日本人の女性を嫁にしたのである。

 このように韓人陶工等に対する藩の保護政策は一面に於ては同化政策でもあった。即ち日本姓を与えて武士として待遇すると共に日本人女性との結婚を積極的に勧めて混血による同化を計ったのである。これは慶長の役の時島津藩が連行した韓人陶工等への政策とは全く異なっている。
 慶長五年(一六○○)薩摩の串木野辺くの無人の浜に漂着した韓人の一団があった。それは沈姓を初めとし十七の姓を持つ七十人程の男女である。全羅北道南原城が慶長二年(一五九七)八月、宇喜田秀家を総大将とする日本軍主力によって陥落した時島津軍に捕まった陶工等である。

 翌三年十月に和議が成って島津軍は十一月半ば帰国の海上にあった。だが、李舜臣の率いる韓と明の連合水軍と戦って大敗して、島津義弘等はやっとの思いで博多湾にたどり着いている。だが、陶工達を乗せた船は行方不明になり、東支那海を流されて薩摩半島の浜に漂着したのはその翌年だった。場所は串木野の南の島平という無人の浜である。

それからこの無人地帯を二・三年もさ迷いながら、風景が故郷南原の山野に似ていて東支那海を見下ろせる丘陵地帯に居所を得た。ここが苗代川という地で、慶長八年(一六○三)のことである。

 そして、細々ながら窯を築いたのである。このことが島津義弘の耳に達し、者どもすべて鹿児島城下に居住せよ、屋敷も与え、保護もするとの上旨を持って藩役人が苗代川に下った。だが、彼等は「故郷はとても忘れることは出来ません」と言って応じなかった。そこで藩は苗代川に土地と屋敷に扶持(給与)も与えて「朝鮮筋目(家柄)の者」と呼んで武士同様に礼遇し門を立て塀を巡らすことも許した。又、軍役に服する義務も外した。この点は佐賀藩の場合と同じである。
 こうして彼等の活発な作陶活動が始まる。しかし、彼等は韓国の姓を捨てて日本の姓に変えることはなかった。旧幕から維新にかけて、その子孫達は苗代川郷士として薩軍に組み入れられて戊辰戦争にも従軍している。隊員の中に車、李、鄭、朴、伸、金などの姓のあるのはすべてそうである。だが、明治後は多少の例外も見られる。郷中でも名家とされる朴氏は東郷という日本姓に変えている。この朴家から日本帝国最後の外務大臣である東郷茂徳が出ている。

 又、それぞれ家族がいたので、日本人と結婚する必要はなく、純血の伝統を守り続けたのである。従って明治に至るまで衣服をはじめ生活様式は韓国の風俗を続けた。言語ももちろん韓国語であった。

苗代川では村の鎮守を玉山宮と言い、朝鮮開国の神祖である檀君を祭神としてきた。だが、蕃神(外国の神)を日本の神としては認められないという明治政府の方針に一時は村中困惑したが、薩摩閥の政治力によって公認の神社になれた。今でも祝詞は韓語で祭事の仕方や祭具などすべてが古朝鮮の風である。

 これとまるで反対なのが有田の陶山神社である。明暦元年(一六五五)に金ケ江三兵衛は七十七才の長寿を全うして死去した。皿山の開祖である彼を何とか神として祭りたいという皿山の民意を尊重した代官は宋廟の創建を許した。
だが、韓人の彼を主神とするのは恐れ多いと遠慮して、管轄下の二里村大里の八幡宮、即ち応神天皇の分身を移して主神とし、これに副神として藩祖鍋島直茂と陶祖として李参平を祀る宋廟八幡宮が皿山大樽に創建された。これが陶山神社である。時は金ケ江三兵衛死後一年目の明暦二年(一六五六)である。

 その五年前の慶安四年(一六五一)には新村外尾に椎谷神社が創建されている。大樽の八幡宮を特に陶山神社と別称したのは、主神は応神天皇でも皿山の地に初めて陶業をもたらした李参平の功を万世までも残したいという皿山住民の願望からであった。これで同化政策も有終の美を飾られたと言えよう。

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