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第二章 佐賀藩の保護政策と色絵の始まり
(二)色絵創始までの酒井田家
 我が国における色絵磁器の創始者は酒井田喜三右衛門、即ち初代柿右衛門ということは周知の事である。この喜三右衛門が南川原で開窯してから、博多承天寺の僧登叔の紹介で製磁の師として招膀(礼を尽くして人を招きよぶこと)したのが高原五郎七と言われている。だが、この人物については前章で触れたように景徳鎮で陶技を習得したとか、石場を発見したとかの説もあり、全く謎の人物である。ともかくこの五郎七の足跡を有田町史と肥前陶磁史考から追ってみる。

 五郎七は難波に牛まれ、天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉が建てた聚楽第の御用陶師になっている。そして、家康によって豊臣が滅びるまで大坂方に従い篭城して戦った。大阪落城後の元和二年(一六一六)には博多まで落ち延び、承天寺の僧登叙を願ってきている。
それから三年目、元和五年(一六一九)唐津焼の代表的な産地である南波多の椎の峰山に移り住んで、この地の陶工達に技を教えること七ケ年、寛永三年(一六二六)に、喜三右衛門に招聘されて南川原に四年間滞留したとある。

 寛永六年(一六二九)には嬉野内野山で開窯し、翌七年佐賀藩の御陶器主任副田喜左衛門の懇請によって岩谷川内の御道具山に来て見事な青磁の焼成に成功したという。そして、その製品を藩主へ献上している。しかし、その頃幕府によるキリシタン宗門の詮議が厳しくなり、五郎七はキリシタンだから逮捕されるとの噂がひろまった。それを聞いた彼は、青磁の製造に必要な道具類を谷に投げ捨て夜に紛れて逃亡した。寛永十年(一六三三)のことである。

大阪へ逐電(行方をくらまし逃げる)した彼は寛永十二年(一六三五)その地で死去したといわれている。

 前章でも触れたが、享保八年と記された「酒井田柿右衛門家文書」の覚書の二に五郎七が元和三年(一六一七)に南川原に来て石場を発見したとあるのに、五郎七はその年は博多の承天寺に滞在している。従ってこの文書には信憑性(信頼してよりどころとすること)がないと言えよう。

 又、有田町史通史編には、他の酒井田家文書からとして、初代の喜三右衛門は初代藩主勝茂の長男で二代藩主光茂の父である忠直に仕えている。だが、忠直が寛永十二年(一六三五)に死去したので、その後喜三右衛門は皿山で製陶を始めたとある。しかし、その二年後の寛永十四年には日本人陶工等が追放されている。
それなのに喜三右衛門には窯焼が許されているのは、藩主光茂が亡父の遺臣としての縁故を重んじたからであろう。

 肥前陶磁史考によれば、杵島郡白石郷竜王村の飯盛山住人酒井田円西が、松浦郡有田郷の南川原に移住したとある。円西は喜三右衛門の父である。そして、白石以来文筆の友である承天寺の僧登叔か高原五郎七を紹介したとする、その手紙を引用している。だが、昭和五十二年に佐賀大学の三好不二雄名誉教授は円西宛てのこの手紙は、古文書学の立場からすれば信憑性が極めて薄いと断じ、特に五郎七なる人物については疑問が多いと言っている。

 又、喜三右衛門の製品は赤絵付以前では白磁であるのに五郎七のそれは青磁であるのもおかしい。

酒井田家が製陶を始めたのが寛永十二年以降であるとするのが正しいとすれば、その年には五郎七は大阪で死去しているから、酒井田家とは何らの関わりもないということである。

 その頃は、日本人を追放しなければならない程製磁の技法を身に着けたものは数多く存在していた筈である。鍋島宗家とは由緒ある者として窯焼を許された酒井田家としては、陶器を専門とする五郎七に頼らなくとも磁器専門の熟練師を雇い入れることは容易だったに相違ない。

 肥前陶磁史考などの説では赤絵の始まりは寛永二十年(一六四三)とある。だが、仮に喜三右衛門の窯が寛永十二年からだとしてもそれまでの年月は僅かに八年である。そこで、この物語では有田町史の正保三年(一六四六)説によりたいと思う。
 その年度はともかくとして、肥前陶磁史考によれば、その頃伊万里の有力な陶器商である東島徳右衛門が、白銀十校の伝授料で長崎に居留していた明国人の周辰官から赤絵付を習得したと聞いた喜三右衛門は、是非それを伝授してくれと懇望した処、その熱意に動かされた徳右衛門は協同して完成しようではないかと承諾した。

 そして、喜三右衛門は徳右衛門の指導の下に実地試験に着手した。その中でも最も重要な赤の発色が極めて難しかった。徳右衛門の伝授といっても四・五行に調合法を書いた抽象的なものであったに違いない。

 しかし、喜三右衛門は寝食を忘れて研究に没頭した。特に庭先に実った柿の赤い色に執念を燃やして遂にその赤色の彩釉を完成したのである。

正保三年(一六四六)五十才の時であった。

 翌年喜三右衛門は柿の蓋物を製作し、これに前年完成したばかりの赤絵で彩色して藩主勝茂に献上した処、精巧で雅味のある真の名器だと賞せられて大いに面目を施した。そこで、自らを柿右衛門と改名して代々襲名することになったのである。

 赤絵の絵付には成功したものの、金銀の焼付法が未だ残されていたので、彼は自ら長崎まで出向いて周辰官を訪ねた。
そして、金銀の焼付法を伝授してくれと懇願した。だが、言を左右して教えようとしない。たまたま、辰官が囲碁を好きだと知ったので、柿右衛門は数日その相手をして馴れ親んでからやっとその秘法を伝授されたという。

 肥前陶磁史考ではこの金銀焼付の完成に高原五郎七の門弟宇田権兵衛という者が協力したとある。だが、五郎七が謎の人物であるからか、有日町史では取り上げていないので省略する。

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