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第二章 佐賀藩の保護政策と色絵の始まり
(三)初期柿右衛門について
 正保四年(一六四七)にポルトガルの「かりあん船」が長崎に来港している。「かりあん船」というのはガレー船のことである。広辞苑によれば「古代・中世に地中海で用いた船の一種。両舷に多数の櫂を出し、奴隷・囚人などに漕がせた。戦時には武装して兵船とした」とある。幕府の鎖国令によって追放されたポルトガルが再度の通商を求めて派遣したのである。

 その年柿右衛門は赤絵の製品を長崎に持参して、幸善町の明人八官の手を経てこのかりあん船によって初めて海外へ輸出をした。又、因縁の深い東島徳右衛門が主としてその製品を取り扱っている。加賀前田家の御用商人塙市郎兵衛も売り始めたという。寛文初年(一六六一)からは有田中野原の陶商藤本長右衛門の手によって売られた。
 柿右衛門が始めた赤絵の技法は十年足らずに遠く京都の野々村仁清にまで伝わっている。仁清は京焼に画期的な発展をもたらした名工であって明暦年間(一六五五−五七)を中心にして活躍している。このことからしても地元の皿山に忽ちにして広まったことは想像に難くない。赤絵創始から二十六年後の寛文十二年(一六七二)には赤絵屋の集落として赤絵町が既に存在している。

 又、万治元年(一六五八)には柿右衛門は初めて佐賀藩主にお目見えしてる。身分制度の厳しい当時、一介の陶工が藩主にお目見えが許されるのは異例のことである。だが、前述した通り忠直の遺臣でもあり、赤絵付の創始者でもあったからであろう。そして、その後も藩主の代が代る度にお目見えをしている。

周知のように皿山では窯焼と赤絵屋の兼業は認められていない。だが、酒井田家だけは代々それが許されているのも大きな特典というべきであろう。

 柿右衛門による色絵磁器の創始が、有田陶業にとってその存亡を左右するほどに重大なことであったかは、有田町史通史編の次の記述によって明らかである。

 「有囲磁器の輸出は中国の内乱と深い関係がある。東印度会社は中国磁器を台湾で仕入れて本国へ送っていたが、寛永十九年(一六四二)頃になると中国の内乱が激しくなり、台湾商館の仕入れは大きく減少した。これは明王朝の末期にあたり、旧満州から起こった清に対して明の遺臣達が激しく抵抗したので、清は南方海岸地帯を封鎖するという強行策に出た。
この結果、景徳鎮一帯の陶業地は、内乱による生産減に加えて、製品を輸出することが出来なくなったのである。オランダ東印度会社は、仕入れが出来なくなった中国磁器の代わりに、長崎に近いところで生産されていた有田磁器の仕入れに転換したのである」と。このような時に有田に色絵磁器が生まれていたということは正に絶妙のタイミングだったと言わざるをえない。

 景徳鎮に代わる産地として有田を選んで、各種の見本を提供した東印度会社は、その紋章のV・O・Cで有田とは馴染が深い。今年古木場に出現したポーセリンパークの別称でもある。慶長七年(一六○二)にオランダのアムステルダムでその地の貿易商数社が統合されて生まれた。そして、国家から喜望峰以東及びマゼラン海峡を経由して行う東洋貿易の独占権を与えられると共に、東洋方面に於て土着の王と条約を結び或は城砦を築いて軍隊を私有することを許可された。

 その二年前の慶長五年にはオランダのリーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着し、家康の外交顧問になった英人アダムズこと三浦按針が上陸している。その後、慶長十四年(一六○九)には二隻の軍艦を以て平戸港に錨を下した。そして、使者は駿府へ行って家康に謁見し、通商許可の朱印状を得て商館を平戸に設置した。寛永十八年(一六四一)にはそれを長崎出島に移転している。

 酒井田柿右衛門家の文書「覚」には、色絵付に成功した柿右衛門は、製品を長崎に持参して加賀前田家の御用商人に売り、その後も中国人やオランダ人へ売ったと書いてある。万治二年(一六五九)東印度会社の長崎商館からオランダ本国とバタビア本店宛に送った日本磁器の中に
茶碗 一五○○個
白磁(角型) 六○○個
色絵(赤・緑彩文) 四○○個
同(大型赤彩文) 二○○個
色絵(銀彩花文) 二○○個
染付 一○○個
などとあり、その他多数の色絵磁器が輸出されている。そして、万治三年(一六六○)の仕訳帳には「乳白手素地のものと思われる」との記述がある。

 慶応大学講師の西田宏子は、柿右衛門の色絵創始から幕末までの約二百年間を四期に分け、第一期を色絵創始から寛文前期(一六六五)頃としている。

そして、三つのグループに分けている。その一つは従来初期鍋島とか松が谷などと称されたもの。その二は古九谷風といわれるものとして、もう一つは中国明末の呉須赤絵の影響を受けた様式としている。柿右衛門に最も関わりのあるのはこの様式であると思われる。以下西田の説を引用する。

 「有田皿山の初期色絵に見る呉須赤絵風の作品は、他の色絵磁器にくらべて素地が純白に近いものが多い。雑なものではあるが、乳白手ではないかと思われる程白地の強い素地もあり、ここに素地の白さを追及して行った柿右衛門様式の色絵磁器の先駆的なものを見ることができると思われる。しかしながら、この素地の白さと色調の明澄さは、その当時我が国で愛好されていた中国の呉須赤絵や、万暦赤絵のもつきらめくような色彩とは全く異質のものである。
我が国の人々を魅了したのが、中国色絵磁器の華麗さにあったのであるならば、ここに示した日本の呉須赤絵風の色絵磁器は印象を異にする。それゆえこの種の色絵磁器が国内での伝世品に乏しく、一方、海外では大いに賞翫され、輸出されたと考えられるのである。」

 このように西田は初期色絵磁器を三つのグループに分け、それぞれの中に柿右衛門様式に展開してゆく要素を見ているが、「文様の主題の上から余り大きな変化は見られない。中国の呉須赤絵の影響を受けたとはいえ、竜、鳳凰、獅子などよりも牡丹、菊などの花文が好まれている。」

 と述べている。

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