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第二章 佐賀藩の保護政策と色絵の始まり
(四)御道具山のこと
 内野山から折角懇請して岩谷川内まで連れて来て、見事な青磁の器を焼き上げ藩主にまで献上した高原五郎七に逃走されてしまった副田喜左衛門は、その責任を深く感じたのであろう。同じ京都の浪人で義兄弟の契りを結んで一緒に窯をやっている善兵衛と協力して、五郎七が捨てて行った諸道具や青磁の破片などを谷から拾い出したり、青磁土の出る所をやっと突き止めたり、いろいろ工夫を重ねて工程の順序も知り、ご用品として青磁を完成した。

 その功績によって喜左衛門は手明鎚(佐賀藩独特の士分で足軽よりも高い身分)に取り立てられ、正式に御道具山役を仰せつけられた。五郎七逃亡後のことだから、寛永十二年(一六三五)頃のことであろう。
喜左衛門は承応三年(一六五四)岩谷川内山で死去した。御道具山は万治三年(一六六○)頃まで岩谷川内山であった。

 寛文元年(一六六一)に南川原に移っている。その頃は柿右衛門様式が完成に近づきつつあり、青磁だけよりも多彩な色絵に関心が移ったからであろうか。御道具山役は喜左衛門の長男清貞が襲名して跡を継いだ。だが、寛文六年(一六六六)南川原で死去、弟政宣が相続している。御道具山になった南川原山は柿右衛門を中心として盛況を呈したことであろう。だが、御道具山だったのは寛文十ニ年(一六七二)までで翌年延宝元年には大川内山に移っている。

 その理由については明らかでないが、恐らく、製作の秘法を守ることや製品の品位を保つことなどが主なる目的ではなかったかと考えられる。又、大川内山付近には優良な青磁砿があったことも、最初岩谷川内の青磁から始まった因縁からしても理由の一つであろう。それに南川原山の中心であり、初代柿右衛門の跡を継いでいた三代柿右衛門が寛文十二年(一六七二)に死去したことも理由の一つとして考えられる。

 大川内山では藩の御用窯が築かれている。肥前陶磁史考によれば「御道具山の登窯の室数は三十三室で、その真ん中の三室が御用品を焼くためのものであった。そして、この三十三室の焚き手を十六人と定め、この内十人を本焚き手とし、他の六人を助焚き手としてあったが、民窯からも交替に人夫手伝いを出したものであった。」とある。
御道具山には御用細工人・御用絵書きが任命されて扶持(給与)を本藩から与えられていた。有田皿山の細工人のうち、優れた技量を持っている者は御用細工人として大川内山に移住させられた。御用職人はろくろ細工人十一人、捻り細工人四人、画工九人、下働き七人、計三十一人の定めであったという。

 御用陶器に赤絵を付ける時は、有田赤絵町の今泉平兵衛宅で調合した絵の具を大川内山の陶器方役所に送り、そこで絵付けを施して箱に入れ、再び有田に送られたものを平兵衛宅で赤絵窯に入れて焼いた。これが後で「色鍋島」とよばれるものである。では、何故このように面倒な手続きをとったのであろうか。これについては次のような記録がある。

 「大川内御用御陶器のうち、赤絵物の付け方について、先年我々の同職の平兵衛と申す者を大川内山へ移住させるという通達があったが、赤絵付けは本朝(我が国)無類、極秘の職業であるから、有田以外の所で赤絵付けを行なうことは出来ない事を赤絵屋全員からお願い申し上げたところ、お上でもご尤もとお考えになり吟味変えになった。」と。

 御道具山と称するよりも、近代では藩窯という名が一般的になっている。付言すれば、第一に、原料はすべて有田石場の最高の磁石を使用している事。
第二に、皿山代官の管轄下にあって、有田皿山と同じ行政管轄に編入されていた事、従って大川内山は公的には有田皿山の一部として認識されていた事。第三に、大川内御道具山の職人は、すべて有田皿山の職人の中から選抜されていた。献上ならびに大川内焼物に間する一切の職務権限は皿山代官に申し付けられている。

 副田家は代々御道具山役を仰せ付けられて御維新まで続いた。この御道具山の設定も藩の有田焼保護政策の一つとも言えよう。

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