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第三章 十七世紀から十八世紀への有田
(一)十七世紀後半の皿山
 大木宿に皿山代官所が開設されて、山本神右衛門が面目横目付から正式に代官に任命されたのは慶安元年(一六四八)である。その頃、日本人陶工追放から十年余りしか経っていないのに、窯焼は百五十五もあった。それまで神右衛門は運上銀(税金)のことで窯焼達と藩との間に挟まれて大変苦心していた。

 それというのは、彼が横目付時代の寛永十九年(一六四二)から翌年までの二ケ年を、伊万里の東島徳左衛門に内命して丁度その頃焼物買付のため、伊万里に来ていた大阪商人の塩屋とえぐ屋とを説得させて、この三人に「山請け」という専売権を与えた。即ち、有田皿山で生産される焼物全部をこの三人に買い占めさせる代わりに年に二十一貫づつを運上銀として上納するという契約を結んだのである。
 ところが二人の大阪商人の方はその思惑が外れて大損した上、衣類まで売り払って運上銀未納のまま大阪へ逃亡した。これを聞いた神右衛門は早速このことを藩庁に報告すると共に、伊万里から両人の後を部下に追わせた。下関で迫い付いて運送中の焼物の荷を差し押えて、その地で売り払い運上銀の未納分を上納することが出来たのである。

 この事件のため、特定の商人に専売権を与えるのを止める代わりに皿山中で運上銀を上納させることにした。神右衛門は藩の希望する運上銀の増額を百五十五人の窯焼が受け入れるよう説得を続けた。だが、七十五人の窯焼はたとえ追放されようとも応じようとしなかった。このような状況の下で江戸在府の藩主の裁決によって皿山代官所の設置と神右衛門の代官起用になったのである。

その結果、藩が要求した七十貫よりも多い七十七貫六百八十八匁の運上銀を取り立てて上納することが出来た。

 色々の説もあるが、代官所は十八世紀の前半頃に大木から白川に移転している。五年後の承応二年(一六五三)の「万御小物成(田畑から上納する年貢以外の雑税)方算用帳」によれば、皿山からの運上銀は左の通りとある。

 有田内外山 銀四十六貫二百七十五匁 大外山 銀八貫百十五匁

 この算用帳は年具米以外の雑税すべてを記帳した計算帳のことである。

 当時の呼称と区域とに多少の相違はあるが、
有田内山は泉山から岩谷川内までの旧有田町で、外山は外尾山、黒牟田山、応法山、南川原山、広瀬山(西有田町)一ノ瀬山、大川内山(伊万里市)である。大外山は鍋島本藩の直轄領以外で皿山代官の支配下にある陶産地であって、筒江山、弓野山、志田山、小田志山、吉田山、内野山の六ケ所である。

 藩主が皿山代官に公布する行政についての掟を手頭と称している。代官は一年に一度内外山の窯焼達を代官所に集めてこれを読み聞かせたり、又は、代官が各山へ出張して読み聞かせた。百姓達にはその村の庄屋の家に集めて読み聞かせて周知徹底させている。従ってこの手頭が有田皿山行政の根幹となったのである。

 この手頭で今でも残っていて一番古いのは、元禄六年(一六九三)に二代藩主鍋島光茂が公布したものである。これは宝暦(一七六三)年間頃まで踏襲されている。大体左の通りである。

 無理非道をさけ廉直を旨とする。宗門改めの入念な実行。幕府法及び藩の掟の年毎の布達。火の用心。賭博の禁止。怠け者や煽動者の取り締まり。訴訟に対する公平な裁判。喧嘩狼籍に対する処置。代官や庄屋の命に従わない侍の追放。上下礼儀の遵守。女遊びや乱酒や目に余る遊びの取り締まり。他領からの旅人の監視。絵書きや細工人の他領流出の取り締まり。陶土の他領持ち出しの禁止などの諸項目に亙っている。

 その後天保二年(一八三一)には次の事項が追加されている。
不良窯焼の取り締まり。窯焼に対する窯積入数量増加の奨励。運上銀の期限内徴収。などである。

 昭和戦前まで有田の業界では見本のことを手頭と称していた。今では見本とかサンプルとか称して手頭は完全に死語になっている。何故手頭と称したかといえば、焼物の見本は藩の掟である手頭と同じように大変重要で権威のあるものだ。窯焼は見本を手頭と思ってそれと寸分も違わぬものを焼き上げなければならないという意味からであろう。

 十七世紀の終り頃には代官と伊万里詰めを除いて手明鎚十名、足軽十名位が地方と陶器方及び大川内詰とに分かれて勤務していた。その下に手男という町人か農民かが手伝いとして若千名任じられた。そして、石場には土場番所、要所要所には口屋番所があって掟通りに勤務していた。

 こうして十七世紀末までには皿山代官所の支配体制は確立されたものと思われる。だが、その過程にあって有田の秘められた色絵技法が早くも京都と加賀へ流出している。前章にも触れたが柿右衛門の色絵磁器創始から十年という短い間に先ず京都へ伝わっている。

 享保十八年(一七三三)頃浄瑠璃に仕立てられた物語に「椀久松山元日金年越」というのがある。以下有田町史陶芸編から引用する。

 「大阪御堂筋に茶椀屋久右衛門という商売熱心な商人がいたが、たまたま新町の遊女松山太夫と深い仲になり、その財産を使い果たしてしまった。松山太夫は『椀久』の家を再び盛り返そうと思い、その父が青山幸兵衛といって肥前有田の生まれであったから、父に頼んで柿右衛門の発明した色絵付けの技法を椀久に教えさせ、椀久は更にこれを陶工清兵衛に教え、こうして色絵付けの技法は京都に伝わった。
この事実が判明して、幸兵衛は藩法を破った罪人として刑に処せられ椀久はついに狂人となり、松山太夫は世の無常を感じつつ病没したという物語である。

 陶工清兵衛は野々村仁清のことである。又、幸兵衛は有田の陶器商であったから椀久とは多少の交際があったと考えられる。物語には若干のフィクションは含まれているかもしれない。だが、事実に基づいていると言われている。

 柿右衛門が色絵を完成した直後に加賀前田家の御用商塙市郎兵衛もその製品を扱ったと前章で触れたが、塙は柿右衛門の逸品を藩主前田利常に献上して大いにその賞賛を得たとある。このようなことが動機となって前田家による九谷の陶業が始まるのである。即ち、分家の大聖寺藩主前田利明は家臣の後藤才次郎定次を肥前に下して密かに白磁の製法と色絵の技法を探らしている。

万治元年(一六五八)のことである。

 彼は身をやつして鍋島藩の警戒網を突破潜入し、後の赤絵町、当時の下幸平の陶商富村家(富村勘右衛門の先祖)の店員になった。才次郎は日夜勤勉に勤め、大いに主人の信用を得たという。この店に三年居て製磁の法は略会得した。だが、色絵の技法は内山にはまだ普及してなかったのか、彼は伝手を求めて屡々南川原へ行って柿右衛門の上絵窯を盗み見してやっとその要領を覚えたので、富村から逃げ出して長崎へ行き、中国人から絵付けの顔料などを購入して加賀へ逃亡している。寛文元年(一六六一)のことである。

 才次郎は柿右衛門の色絵技法だけを覚えたのではなく、その頃山辺田窯辺りで製作されていた古九谷風の素朴な色絵も身に付けたのではなかろうか。
当時の古九谷風の色絵はヨーロッパはもとより日本人の好みには合わず、東印度会社の本店バタビア付近の東南アジア向けとして若干製造されていたとも想像される。そこで才次郎は色絵としては比較的単純なこの文様を以て九谷の主な絵柄にしたのではなかろうか。古九谷文様が有田で始まったというのが今日定説になったことからしてもこのような考え方も生まれて来るのである。

 この節の冒頭に記した「山請け」の大阪商人の思惑が外れたことについて、前山博氏はその著「伊万里焼流通史の研究」の中で、「多額の請負運上銀に見合うだけの商売が出来なかった事情は何であったか」として西田宏子著「古伊万里」から引用している。即ち、「中国は明代末期の天啓・崇禎年間(一六二一−一六四四)にあたり、景徳鎮を始めとして各地で輸出用磁器が作られていた。

いわゆる『古染付』や『祥瑞』などの茶人の好みによったものも含まれている。このように茶道具用に特別に注文生産されたものとは別に、『呉州赤絵・呉州染付』といわれる中国磁器の輸入も忘れてはならない。この中国磁器の輸入は、初めは中国人と日本人の手によっていたが、寛永(一六二四−四三)初期にはこれにオランダ商人が加わる。(中略)一六三八年には総計十四万個余りの呉州赤絵・呉州染付が日本に持ち込まれている。このうち十三万六千個が大阪商人に売られている事実は、それらが京阪地方に於て、有田の磁器の進出に脅威を与えるに十分の量であったことは想像に難くない。」と。

 そして、前山氏は次のように述べている。
 「寛文末頃の全国的な飢饉とその経済的影響を背景として行われる市場での競合に於て、大量の輸入中国磁器の占めるシェアは大きく、草創期をようやく脱したばかりの有田磁器の市場進出を妨げたものと考えられよう。」と。

 二人の大阪商人が「山講け」になった頃は既に内乱は起こっていたが、明滅亡の二、三年前のことであり、中国からの輸入は低調でも続いていたと思われる。専売権制が廃されて皿山中で運上銀を上納しなければならなくなったため、その製品を売り捌く商人が皿山に当然生れただろう。

 京都へ色絵の技法を伝えた青山幸兵衛は皿山の商人で、その時期は一六五五年頃である。

椀久が有田まで来るということは不可能であり、幸兵衛が有田焼販売のため上阪した時と想像される。

 又、九谷焼の開祖後藤才次郎が一六五八年頃住みこんだ富村家も赤絵町の商人である。柿右衛門の製品を寛文初年(一六六一)から販売したという陶商藤本長右衛門は中野原の住人である。幸兵衛の居所は不明だが、赤絵町かそこを挟んだ本幸平か中野原辺だろう。

 赤絵町は一六七○年代に下幸平からこの町名になっているから、一六五○年代には既に赤絵屋が数軒生まれていたものと想像出来る。
そして、これらの赤絵屋が柿右衛門の技法を盛んに模倣したのであろう。従って幸兵衛や才次郎は柿右衛門窯を盗み見しないでも、近くの赤絵屋からその技法を盗むことは出来たのではなかろうか。いずれにせよ十七世紀後半には赤絵町を中心とした商人と赤絵屋が皿山の町の中心を形成していたと言えよう。

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