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第三章 十七世紀から十八世紀への有田
(二)伊万里焼大洋を渡る
 有田町史は商業編1で伊万里焼輸出のことに百五十頁も充てている。それを十頁位に短く纏めるのは難しいが、数字によってみることにする。先ず中国磁器を専ら扱っていたオランダ東印度会社が明末の動乱のため、その輸出が困難になったので、その代わりとして有田の磁器に着目したのが始まりである。

 明が首都北京を清に奪われたのは正保元年(一六四四)である。その三年後の正保四年の秋、初めて伊万里磁器が唐船(中国船)によって長崎からカンボジアヘ運ばれたという記録がオランダ商館の資料にあるという。
品名と数は「種々の粗製の磁器百七十四個」とあるから、勿論色絵ではない。又、当時日本で磁器が出来ていたのは有田だけだから、これは当然有田で作られたものである。そこで、有田町史から伊万里焼をオランダ東印度会社が輸出したという数量を年度別に見ることにする。

オランダ東印度会社伊万里焼輸出数量
(1650〜1757)
年度 輸出数量
1650 (慶安三) 145
1651 (慶安四) 176
1652 (承応元) 1,265
1653 (承応二) 2,200
1654 (承応三) 4,258
1655 (明暦元) 3,209
1656 (明暦二) 4,139
1657 (明暦三) 3,040
1658 (万治元) 5,257
1659 (万治二) 33,910
1660 (万治三) 73,284
1661 (寛文元) 52,807
1662 (寛文二) 86,329
1663 (寛文三) 55,874
年度 輸出数量
1664 (寛文四) 68,682
1665 (寛文五) 32,787
1666 (寛文六) 13,389
1668 (寛文八) 40,329
1669 (寛文九) 25,542
1670 (寛文十) 48,536
1671 (寛文十一) 85,493
1672 (寛文十二) 17,231
1673 (延宝元) 11,498
1674 (延宝二) 36,375
1675 (延宝三) 6,009
1676 (延宝四) 37,527
1677 (延宝五) 50,404
1679 (延宝七) 50,561

年度 輸出数量
1681 (天和元) 33,694
1685 (貞享二) 15,848
1686 (貞享三) 7,930
1687 (貞享四) 16,618
1688 (元禄元) 17,420
1689 (元禄二) 21,337
1691 (元禄四) 6,000
1692 (元禄五) 2,000
1693 (元禄六) 7,600
1694 (元禄七) 2,800
1695 (元禄八) 7,900
1796 (元禄九) 8,700
1697 (元禄十) 12,048
1698 (元禄十一) 8,454
年度 輸出数量
1699 (元禄十二) 8,510
1700 (元禄十三) 6,640
1701 (元禄十四) 2,866
1702 (元禄十五) 2,500
1703 (元禄十六) 3,150
1704 (宝永元) 6,600
1705 (宝永二) 16,050
1706 (宝永三) 20,216
1707 (宝永四) 9,428
1708 (宝永五) 12,020
1709 (宝永六) 7,860
1710 (宝永七) 10,940
1711 (正徳元) 9,000
1714 (正徳四) 12,946

年度 輸出数量
1720 (享保五) 22,150
1721 (享保六) 2,648
1722 (享保七) 1,850
1723 (享保八) 3,300
1727 (享保十二) 6,457
1731 (享保十六) 4,174
1732 (享保十七) 3,871
1735 (享保二十) 6,550
1737 (元文二) 100
1740 (元文五) 1,796
年度 輸出数量
1741 (寛保元) 1,940
1742 (寛保二) 1,841
1744 (延享元) 200
1745 (延享二) 2,702
1746 (延享三) 1,002
1754 (宝暦四) 7,435
1755 (宝暦五) 6,028
1756 (宝暦六) 11,725
1757 (宝暦七) 300
合計 1,233,418

(備考)この表に無い年度には輸出が無かったか、又は不明とある年である。
この送り先別の明細は次のとうり。
送り先 数量
バタビア政庁病院 22,518
バタビア政庁薬局 13,076
V・O・Cバタビア薬剤局 193,822
V・O・Cバタビア雑貨部 105,830
バタビア総督官邸 7,504
オランダ本国 190,489
バタビア会社本店 172,001
マラッカ商館 132,084
マラッカ要塞病院 800
セイロン商館 29,789
ベンガル商館 18,886
送り先 数量
台湾商館 10,505
トンキン商館 11,250
ペルシャ商館 102,055
モカ商館 21,587
スラツテ商館 185,862
シャム商館 2,261
コロマンデル商館 3,990
マラバール商館 5,252
コチン商館 1,100
アンボイナ・バンダ商館 2,776
合計 1,233,418

柿左衛門の色絵創始から十三年目に当たる万治二年(一六五九)の資料が現存している。輸出数量33,910個の内、白磁6,950個、色絵磁器3,532個、染付23,425個とある。即ち、白磁二十%、色絵磁器十%に染付け七十%である。 だが、このうちオランダ本国に送った明細は次の表の通りであり、色絵が全体の四十五%を占めている。このことは当時欧州では既に有田の色絵が歓迎されていたことを物語っていると言えよう。

オランダ向け磁器輸出明細表(一六五九)

品名 色絵 白、染付 合計
茶碗 800 700 1,500
195 0 195
304 300 604
600 1,520 2,120
バター皿 590 240 830
50 0 50
重箱 5 0 5
1 99 100
品名 色絵 白、染付 合計
塩入 0 10 10
芥子入 0 10 10
三揃平体 0 300 300
インク壷 0 10 10
酒用鍋 0 10 10
鶴置物 0 3 3
2,545 3,202 5,747
(外に見本108個)

 以上が当時本方荷物といわれたオランダ東印度会社による輸出の大要である。これ以外に商館職員やオランダ船の乗員らの個人の売買荷物を脇荷と称した。会社はこの私貿易を厳しく禁止していたが、幕府は慣例的なものとして認めていた。だが、貞享二年(一六八五)この脇荷輸出の定額を四百貫と制限している。脇荷輸出の数量を有田町史では左の通り推定している。 この内資料が残っている正徳元年(一七一一)の脇荷輸出は十四万九千五百八十三個で銀額で三百九十四貫二百八十七匁七分とあり、幕府の制限定額ぎりぎりである。又、東印度会社の輸出数九千個と合計すれば、数量は十五万八千五百八十三個。銀額は四百十三貫六百七匁七分(この金額六千八十二両一分と銀十四匁七分)であるから、脇荷は量で九十四%以上、金額で九十五%以上を占めていることが分かるのである。
 蘭船によるもの合計 400万5,972個
寛文元(1661)
〜天和三(1683)
23年間 115万個
貞享元(1684)
〜元禄十六(1703)
19年間 132万個
宝永元(1704)〜
正徳五(1715)
12年間 103万5,972個
享保元(1716)〜
享保八(1723)
7年間 49万個
 唐(中国)船によるもの(主にバタビア向け)
合計 203万8,283個
寛文元(1661)〜
寛文十二(1672)
12年間 109万5,323個
延宝元(1673)〜
天和二(1682)
10年間 94万2,960個

 この唐船による輸出は一六八三年以降資料から消えている。これは康煕帝によって国内が安定したため、清朝は展海令を公布してバタビアヘの中国磁器の輸出を始めたからであろう。しかし、その後も唐船による伊万里焼の輸出は若干は続いたとある。

 十七世紀後半から十八世紀初頭までは活況を見せた伊万里焼の輸出がその後著しく減退したのは何故であろうか。第一に考えられることは、輸出と共に大阪を主な市場とする内需も盛んになったため、価格が高騰したことである。

 第二には貞享二年(一六八五)から始まり、正徳五年(一七一五)の幕府による貿易制限令がその翌年から適用されたため、その年以降、東印度会社が自家用以外の商売用の伊万里焼の輸出を止めたことである。
第三の理由は、清が前述した通り輸出禁令を解いたため、伊万里焼がヨーロッパで賞翫されているのに刺激されて中国磁器の輸出が盛んになったことである。康煕時代に開花した彩磁中特に青花という文様は欧州の好みを取り入れたもので東印度会社の手によって少なからず欧州へ輸出された。その後更に端正で華麗な美を誇る康煕五彩から雍正・乾隆期には西欧主導型の粉彩磁器の流行に発展したのである。この中国彩磁器のヨーロッパ輸出は一八三○年頃まで続いて伊万里焼の強力なライバルになっていたのである。

 第四の理由として最も重大なことは、伊万里焼の美に憧れて模倣する機運がヨーロッパ全土に起こってイミテーションの製造を目的とする陶業者が次々に生まれたことである。これについては次の節で述べることにする。

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