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第三章 十七世紀から十八世紀への有田
(三)十八世紀初め欧州に磁器開発さる
 有田町史では十七・八世紀にヨーロッパヘ輸出された色絵磁器を様式別には分類していない。又、伊万里焼が十八世紀に於てヨーロッパの窯業に与えた影響についても触れていない。特に十七世紀に於ては京都や九谷、十八世紀には会津や砥部、瀬戸に有田磁器が与えた影響については詳しく述べてある。だが、ヨーロッパの磁器発生に原動力的役割を有田焼が果たしたことはよりグローバル(地球的)なことである。そして、皮肉にもこれが逆に作用して伊万里焼輸出減退の重大な理由になったことも見逃すことの出来ない事実である。

 このことを見事に解明したのが、有田町史と前後して昭和六十一年六月に発刊された故深川正氏著「海を渡った古伊万里」である。氏はその一年半後の六十三年一月に不帰の客となったので彼の遺著とも言うべき貴重な書である。
ということは、この著を著わすため、昭和四十五年には有田の若い業界人やデザイナー達七人のリーダーとして初めて渡欧したのを皮切りに十七・八年の間に十回もヨーロッパ諸国を初めとして中国、ジャワ、ケープタウン、米国等を探訪して得た、生涯をかけた労作であるからである。

 以下ドイツの分だけ同書から引用する。

 「十八世紀の初め、ヨーロッパに流入した東洋磁器に接して、なんとかしてそれらに劣らない透明な磁器を作り出そうとする努力は、フランス、イタリア、ドイツで同時に行われたが、ドイツの場合は他とくらべてはるかに抜きんでていた。ザクセン地方に良質の陶土が発見されたことにもよるが、より大きな理由は、アウグスト一世というまことにすさまじい陶磁愛好者を頂点にいただいていたことによるものであろう。

 ヨーロッパで最初の磁器発見の手掛かりをつかんだ人は、錬金術師のベトガーである。彼はヨーロッパでも一、二を競う、有名な錬金術師であった。この高名と才能を、アウグスト一世が見逃すはずがない。逮捕同様な手段で、ベトガーを強制的に採用し、マイセンに近いアルベルヒスベルク城でまず金を作らせる。次いで一七○四年、これまた世界的に著名であった物理学者のチルンハウスを知り、彼と共同で、磁器の開発研究を重ねる。かくて、ザクセン地方で産出する原料を何度も試験焼きし、高温焼成でのあらゆる化学変化を見るため、苦心に苦心を重ねて実験をくり返した。その結果、耐熱性のある粘土に溶解土を混入して焼成することにより、初めて磁器らしいものを得ることに成功した。(中略)  このソフトなものが、ベトガーの手によって完成したのが一七○七年、ただし赤色の器、つまりレッド・ストーン・ウエアで、完全な透明度のある磁器の一歩手前のものであった。さらに一七○八年、マイセンの近くで耐熱度の高い陶土が発見され、ここに初めて透明度のある白い磁器の完成を見たのであった。(中略)この成功を非常に喜んだアウグスト一世は、早速ベトガーを中心に据えて、アルベルヒスブルグ城に本格的な製陶工場を開設する。(中略)

 ベトガーは、単に磁器のボディを生み出したばかりでなく、そのボディの上に、金銀をはじめとする各種の原料を使って、色絵の装飾をほどこすことにも成功している。

当時、(中略)初期の装飾文様は中国風であったが、それが次第に、有田の柿右衛門様式や古伊万里様式の模倣は、先ずマイセンにはじまり、ここを起点としてフランスやイギリスに波及し、各窯々の絵文様様式を確立させていったのである。」

 ドイツ以外のフランスやイギリスとオーストリアについては、同書から要約して次に述べる。

 十七世紀の終り頃からフランスのサン・クルー窯では、早くも柿右衛門様式の模倣がなされている。この窯の持つ軟質性の地肌は「濁し手」さながらの感じで新しい魅力となって当時のパリ人に愛好されたといわれる。

 十八世紀に入ると、民営が困難になり、宮殿工場としてシャンティ窯が、一七二五年にコンデ公によって設立された。
その当初から柿右衛門様式をそっくりそのままコピーしたという。公はドイツのマイセンからも引き抜いた絵付師達に模倣を続けさせると同時にそれをヨーロッパ人の趣味と鑑賞に合わせるように指示したと言われている。

 十八世紀のイギリスには四つの大きな窯がある。王宮の支援の下、一七五一年に創立されたのがチェルシー窯である。王室用の最高の品を焼いて一七七○年頃まで最盛期を持続する。ここでも有田の柿右衛門様式のものが「インド風草花文」の名目で次から次へとコピーされたという。

 チェルシー窯のライバルがボー窯である。一七四四年に創設されてボーン・チャイナを開発している。この窯で通常用いられたデザインは柿右衛門スタイルであったという。

 一七五○年に創立されたダービー窯は、十八世紀の終り頃から古伊万里スタイルやマイセン物をコピーしてマイセン窯と同等の物を作るのが究極の目標とされていたという。

 古伊万里コピーで有名なのがもう一つある。一七五○年頃からのウースター窯である。この窯の特色は古伊万里文様からの直接のコピーということと、そのコピーがオランダのデルフトから連れて来た絵付師によってなされたということである。

 「海を渡った古伊万里」には、深川氏が丹念に調べ上げた、世界各地の美術館などに残されている夥しい数の伊万里の名品が紹介されている。
この書を読めば、十七・八世紀にヨーロツパヘ輸出された色絵磁器は、大物は主に豪華絢燗な古伊万里風、小物は主に端正美麗な柿右衛門風であることが理解できると思う。

 オーストリアのウィーンには、一七一七年から一七四四年まで三十年足らずの短い間であるが、柿右衛門写しを続けたというデュ・バキアという窯がある。この窯はマイセン磁器の発明者ベトガーと親しいフンガーという技師が迎えられてから、マイセンの柿右衛門パターンである「松竹梅、柴垣に鳥の図」などを手本としたということである。

 以上が十八世紀の欧州諸国で柿右衛門や古伊万里等有田磁器が与えた影響の概要の一端である。

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