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第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(一)十八世紀までの国内流通
 十八世紀になってから皿山の窯焼によって生産された有田焼はどんな方法で国内販売がなされたかについて、伊万里港から相手市場との関連については肥前陶磁史考や有田町史にも概略だけは記述されている。だが、それは有田を離れて伊万里に運ばれた後のことだから、町史としてはそれでよいとも言えよう。

 しかし、幸いのことに伊万里を起点とした有田焼の国内流通については、最近刊行された前山博氏の「伊万里焼流通史の研究」に詳しく述べてある。だが、皿山から伊万里津までの流通がどうしてなされたかについては触れられていない。又、このことは肥前陶磁史考でも有田町史でも全く分からない。

 十七世紀の資料には皿山の商人の名が散見される。寛文初年(一六六一)から柿右衛門の製品を取り扱ったという中野原の藤本長右衛門。
京都の仁清に色絵の秘法を伝えたという青山幸兵衛。又、九谷の後藤才次郎を店員に雇ったという下幸平の富村森三郎も商人である。

 この富村の先祖は本家の富村源兵衛に従って伊万里から有田に移住し、自分は下幸平に、本家は大樽に店舗を構えている。そもそも、富村源兵衛は鹿児島城下の豪商であって、二千石余の巨船五・六艘を所有し、琉球通いを名目にした印度貿易を営んでいた。ところが文禄三・四年(一五九四・五)頃薩摩藩は、先の天正十五年(一五八七)秀吉の侵攻の時、領内の真宗門徒が八代法主顕如の唱える名号の前に屈したことが敗北の原因だとして、真宗寺とその門徒に圧力を加え磔刑にするというので、門徒だった富村源兵衛は家財一切を持ち船に搭載して分家共々鹿児島を逃げ出し伊万里港に上陸した。そして、富村両家はこの地に居住して雑貨類の印度貿易を続けた。

 この時一緒に逃亡して来た明善寺の住職には江湖の辻で今の明善寺を開基させたのである。その後有田焼が貿易の主体になったので、分家と共に有田皿山に移住したのである。この富村家の様に財力のある者は商人として皿山で繁栄を続けることが出来た。だが、前章で述べた青山幸兵衛などは商人としての財力が乏しいため、娘を遊女に売って資金を調達しているようである。

 肥前陶磁史考によれば、十七世紀には江戸の陶商が皿山まで来て直接窯焼から仕入れたという記事も左の通りにある。

 「寛文八年(一六六八)江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛は、仙台藩主伊達陸奥守綱宗の需めによって、有田へ下り商品仕入の傍、精巧な食器を物色したところ、絶品が得られなかったので、二、三の窯焼に相談したら当時の名陶家辻喜右衛門を推薦した。
そこで早速彼に注文して青花の見事な食器を入手出来たので、満足して携え帰り伊達家に納めた。二年後の寛文十年のことである。」

 このように早くも十七世紀の後半には江戸からさえ陶商が皿山まで仕入に来ているくらいだから、国内第一の市場である大阪からどんどん陶商が入り込んで来たのは当然であろう。しかも六五○年頃には中国からの輸入は完全に途絶しているから、磁器の供給地として皿山の比重は急激に高くなったのだろう。色絵創始までは粗製の磁器といわれていた有田焼も色絵の普及と大阪商人が提供する中国磁器の模倣とによって急速に品質が向上したに違いない。前山氏の著書によれば、延宝年間(一六七三−八○)大阪に早くも「肥前いまり焼物問屋」が六軒も存在している。

 その頃既にいまり焼物との呼称があることからして、積出港の伊万里には柿右衛門色絵創始を指導した東島徳右衛門の他にも多数の商人が発生していたと想像される。伊万里で焼物商人が主に居住していた辺りを有田町と称していたことから、皿山の商人で伊万里に移住した者も相当いたに違いない。

 伊万里への国内市場からの仕入客は、紀州、筑前、越前に分類されていた。紀州客は江戸を主とする関東地方。筑前客は大阪を主とする近畿地方から九州まで。越前客は北陸方面から裏日本一帯を縄張りにしていた。中でも紀州客は御三家という権威を背景にして最も有力であった。特に有田郡箕嶋村の商人は伊万里との縁故が深く後で伊万里に移住する者もいた程である。
 十八世紀も後半にはオランダ東印度会社との取引も途絶して、皿山の焼物はその殆どを国内市場に依存せざるを得なくなった。それも伊万里商人の仲介によってである。十九世紀初頭の文化年間(一八○四)には内地向焼物は、一切伊万里市場に於て取引すべしとの藩命が出てからは貿易商か赤絵屋兼業以外の商人は皿山から消滅するのである。

 だが、十八世紀には僅かだが有田に商人はいた。有田町史商業編1に、天明八年(一七八八)下南川原山の百姓喜惣次が「焼物売り支配の為め」大阪へ行く目的で五ケ年の旅行許可証を代官所に申請したところ、往復三ケ年期限で許可されたとある。

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