Home Back 16/58 Next

第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(二)十八世紀皿山の各業種の概況
 寛文十二年(一六七二)代官所は赤絵業者がむやみに増えるのを防ぐため、当時営業していた十一軒を認め、それ以上の増加を制限した。そして、下幸平の中で赤絵屋が密集している中野原寄りの地域を分離して赤絵町とした。残された地域はその時本寺平と改称している。当然営業許可証の名代札が交付されたが、窯税も徴収されることになった。

 それから約百年後の明和七年(一七六九)には赤絵屋を五軒増やして十六軒とした。当時の氏名は明確でないので、六十年後の文政十二年(一八二九)の氏名を見ることにする。
北島寅吉 (橘次郎) 赤絵町
光岡幸平 (久吉) 赤絵町
古田友吉 (茂三郎) 赤絵町
藤重易吉 (太造) 本幸平
川浪卯三郎 (丑之助) 本幸平
辛島弥十 (弘助) 大樽
大塚松太郎 (財四郎) 白川
古田増右衛門 (森吉) 稗古場
西山幸十 (幸蔵) 中野原
(註)括弧内次代。古田友吉後で辻に改姓。
北島源吾 (勝助) 赤絵町
今泉平兵衛 (助五郎) 赤絵町
牛島源右衛門 (兵右衛門) 赤絵町
田中幸兵衛 (長十) 赤絵町
富村芳右衛門 (森三郎) 赤絵町
北島忍松 (宇之吉) 赤絵町
 この他に唯一人赤絵屋を兼業とすることを許されている窯焼がいる。それは赤絵の創始者である酒井田柿右衛門である。

 安永八年(一七七九)五月、皿山代官久米弥六兵衛は赤絵屋絵付の秘法の漏洩を防止するため、家督相続法を協定させた。

それは、十六軒の戸主に子は何人いても、その相続人以外には金付彩釉の調合一切は伝授してはいけないということを盟約させたのである。これの要旨は有田町史陶業編1から引用する。

 「皿山の赤絵物は、日本は言うに及ばず、外国にまで輸出されている産物であるが、近年長崎奉行の命令で天草で焼物を作り、オランダ輸出用の焼物を製作しているとのことである。これについては絵書き・細工人が有田皿山から参らないでは製作することができないのであるが、平戸領や大村領でも製作しているとのことである。それゆえ、早速調査したところ、薄手の上物は出来ていないが、上方から細工人や絵書きが下って来て近年は三河内辺りに住みつき製作しているので、それらの者が作った焼物を取り寄せて見たところ、皿山の物に似ても似つかぬくらいの下品の物である。
しかし、皿山の赤絵も最初は甚だ見苦しかったが、十六軒の赤絵屋がめいめい心をくだいて絵具の調合法を工夫し、現在では『他家に洩らさず、家々の家伝になし、一子相伝』としている。しかし、下働きの下男どもは見よう見まねで技法を覚え、利欲に目が眩んで他領へ出て技法を伝えるおそれもあるので、去年以来、皿山中の人別調べを開始し、私領からもそのつど届けさせ、一人でも他領へ出ないように手段を講じている。とりわけ赤絵物は日本第一御国(佐賀藩)の名産であるから、格別に取り締まりの方法を吟味させられたわけである。もっとも、上から強制的に命令しても違反することはないであろうが、この節は各人から自分の取り締まり方法を立てて、それに違反しないように家職を営むよう規則を定める必要がある。」

 そして、この盟約書に庄屋(赤絵屋頭のこと)金兵衛以下十六名が署名捺印したのである。

 窯焼の数は寛永十四年(一六三七)の陶業者の淘汰の後は、その数百五十五人だったが、寛文十二年(一六七二)から宝暦十三年(一七六三)までの間は、窯焼名代札の数は百八十人に限定されている。その目的は過当競争による品質低下を防止することにあった。しかし、名代札の数と稼動している窯焼の数とは必ずしも一致していない。というのは名代札を持ちながら休業している窯焼もいたからであろう。

 その後窯焼名代札は文化六年(一八○九)には二百二十人に増加している。そして、内山は百三十九人に限定されている。即ち、内山百三十九人外山八十一人である。明治九年(一八七六)の窯焼数は内山百二十九人、外山七十八人とある。内山は十人、外山は三人の減である。幕末から明治初年の混乱期に休業していたのであろう。柿右衛門窯もその時期休業していたのか名前が出ていない。
 十八世紀中代官所からオランダ貿易を許されていた皿山の商人は明和七年(一七七○)の時点で十人となっている。「皿山代官旧記覚書」によれば、「近年有田皿山の陶器、唐・和蘭向け不景気について、今般吟味の上、当年よりは右商人十人相定めいささかも粗末の陶器を相渡さざるようきびしく申し付く儀に候」とある。

 そして、明和九年(一七七二)には岩谷川内山の幸兵衛他十人は出島への出入りを差し止められている。ところが安永五年(一七七六)には貿易商十人が許可されている。それの「申し渡し」によれば、弥惣右衛門、利惣次、喜兵衛の三人は出島への出入りを許可されていて、オランダ人から直接注文を受けることが出来た。残りの七人は長崎の問屋を経由してオランダ人の注文を受けることになった。

 そして、注文品が出来上がると、商人が長崎まで持って行くか、又は船便で長崎まで送り届けたのである。「申し渡し」の後半には注文を受けたら必ず品名数量を皿山会所に届けること。皿山会所が知らないでいると、万一注文品についてトラブルが起こった場合、皿山会所の手落ちになる。当時オランダ船は毎年一回旧暦七月二十日に長崎から出帆する定めになっていた。 もし皿山から品物が届かないため、出帆を遅らせることになれぱ、佐賀藩の責任問題になるからである。

 皿山会所というのは、大木の代官所の出先機関で陶業に関する件一切を管掌していた。場所は上幸平で現在の篠英陶器店の車庫になっている辺りという。

Home Back 16/58 Next
Ads by TOK2