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第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(三)十八世紀皿山の明暗
 十八世紀には有田四百年の歴史に特筆すべき明暗二つの事件が起こっている。明るい方は、辻家の禁裏御用達直納であり、暗い方は、富村と嬉野の密貿易事件である。

 宝永三年(一七○六)上幸平の窯焼辻家四代の喜平次愛常へ朝廷から特旨を以て磁器を直納するよう命が下った。そして、常陸大掾に叙せられて、綸旨(天皇の言葉を書いた書)と天杯を賜ったことである。

 これより先、江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛を経由して二代喜右衛門が青花の磁器を仙台藩主伊達綱宗に納めたことは第一節で述べたが、綱宗はその精巧さを大いに賞賛して、これは尊い方が用いる器であるとして、直ちに仙洞御所に奉献したのである。
時の霊元天皇は殊の外嘉納された上、佐賀藩主鍋島光茂へ命じて、喜右衛門へ「禁裏御用達御膳器一切其他御雛形を以て尚一層清浄潔白なる製品を調達すべし」との勅諚があり、辻家へにはご紋章付幕や御紋章付高張り提灯等を下賜された。そして、この時から天皇家御常用の器は鮮麗な青花白磁になったという。

 しかし、この時は辻家よりの直納ではなく、佐賀藩を通じての納品であった。それが喜平次の代になって直納になったのである。その後今日まで三百年余続いていることは周知のことである。尚、幕藩時代辻家にて使用する泉山の原料は特別に御用坑と称して最上の磁石であった。

 辻家については、十九世紀になってから、即ち、文化八年(一八一一)六月に八代の喜平次が極真焼という焼成法を発明した。三代以来禁裏御用命を拝している彼は、日頃陶技の向上に精進していた。或る時の窯出しに、窯室内で上から落ちたのか、大小の器が数個密着したのがあった。それを壊して調べた処、大きな器の中に落ちて焼成された小器が、玲瀧玉のような出来栄えであったことにヒントを得て案出した焼成法である。

 即ち、目的の器が入る位の大きさで同じ白土を以て容器を作る。そして、その中に目的の器物を入れて同じ白土の蓋を釉薬で以て封じて密閉し、全くの真空の容器内で焼き上げる。焼き上がれば、鉄槌で外の容器を壊して中の器を取り出すもので極真焼と称した。これを以て有田焼の声価を並々高めたことは言うまでもなかった。
 密貿易とその断罪という全く暗い事件は、富村家四代の勘右衛門の時に起こった。初代源兵衛や分家の森三郎については第一節で記した。富村本家の印度貿易は寛永十一二年(一六三六)の鎖国会によって途絶せざるを得なかった。だが、本家富村家は貿易からの莫大な蓄財によって四代勘右衛門に至るまで皿山屈指の資産家であった。当時の童歌に、「勘ねんどんの倉には味噌つき金つき沸き返って候」というのさえあったという。

 この勘右衛門は天性進取の気に溢れる男であった。そして、今日の財を築いた祖先の印度貿易という偉業を思う時、はやる雄心を押えることは出来なかったのだろう。当時富村家には嬉野次郎左衛門という番頭がいた。彼は鹿島藩士の犬塚家から嬉野家に養子に来た男だが、英俊且つ剛胆の性格であった。

自宅の赤絵町では角屋という酒屋を営みながら富村家の頭番頭を勤めていた。

 薩摩隼人の血を受けた勘右衛門と葉隠武士の流れである次郎左衛門とは意気投合し遂に幕府の禁制を犯してでも、有田焼の海外貿易を画策したのである。勘右衛門が焼物を伊万里港で積込んで一旦平戸港に仮泊し、ここで次郎左衛門が同地の今津屋七郎右衛門の協力を得て主として印度方面へ密航した。そして、印度で珍貨奇品を積んで帰港し、これを密かに内地で販売して巨利を得ていたのである。

 しかし、次郎左衛門が大阪で販売した舶来品から足がついて、彼は勿論、今津屋および船頭の徳右衛門等悉く逮捕されて長崎の獄舎に入れられたのである。
 次郎左衛門に対する拷問は非常に厳しかった。だが、彼は断固としてこの事は自分だけの所行であり勘右衛門は少しも関知していないと頑張り続けた。勘右衛門はこのままでは次郎左衛門を長く苦しめるだけでなく、首謀者である自分も所詮は罪科は免れないものと観念して、享保十年(一七二五)五月二十日、大樽の自邸で割腹して果てた。

 獄中でこの事を聞いた次郎左衛門はいさぎよく自ら刑について、七郎右衛門、徳右衛門と共に、長崎の白坂で晒し首にされた。同年十一月十八日のことである。

 いさぎよい自刃によって富村家には何らのお咎めもなく家は現在に至るまで続いている。分家の富村家は十六軒の赤絵屋の一人である。

嬉野家では次郎左衛門の刑死後、嬉野性を母方の姓の久間に改めて代々続いている。十七世紀には青山幸兵衛の刑死もあったが、一人が自刃、三人が磔刑というこの事件は有田町史上最大の悲劇といえよう。

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