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第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(四)副島勇七のことなど
 富村家の事件から七十五年後の寛政十二年(一八○○)に泉山生まれの名工副島勇七が刑死の後晒し首にされている。この事については広報ありた九月号に学芸員の知北万里氏が記述されているが、重複を省みず述べよう。

 勇七は皿山の細工人で天明(一七八一−一七八八)頃、藩から徴用されて大川内の藩窯で働いていた。彼は本職のろくろ細工の他に、彫刻や捻り細工に窯積み方から原料の調合や青磁の製法に至るまで精通した熟練工だったので、その作品はすこぶる優雅で独特の妙味があり、周囲から賞賛されていた。

 特に時の藩主治茂からは格別の恩顧を受けていた。それが彼を慢心させ騎り高ぶる態度となって藩命にも反抗して数回も謹慎させられている。
藩窯はもとより皿山諸山中並ぶものない自分がこんな草深い大川内の山間に封じ込められているのが口惜しいと彼はその発散出来ない心中の怒りを人に漏らしていた。

 そして、藩命と言って名工等を徴用した上、外出さえ許さないのは不当であると非難していた。しかし、彼のこの不平を、周囲の連中は長年の慣習からして先祖以来の藩主の厚恩を忘却するものとして勇七を傲慢だと憎んでいたという。

 又、藩としても卓抜した技術を持つ彼を罷免すれば、その秘法を他国へ伝播させる恐れがあるとして、寛大に待遇していたので、彼は益々増長し藩窯の窮屈な制度を改革せよと監督の藩吏へ抵抗していたが、そのことが度重なったので、遂に藩主の裁可を得て藩法通り所払いになって隣村の正力坊へ居を移された。

そして、御用職人の資格を剥奪され、給与もないので極度の貧困に陥った。だが、自業自得だとして誰一人助けてくれないので、遂にある夜、彼は妻子を捨てて遁走した。寛政九年(一七九七)のことである。一度は伊予の低部にも行った形跡もあった。だが、さっぱり行方は知れなかった。その後たまたま京都の市場で陶器ではあるが、瀬戸焼の中に色鍋島を模写したものが発見された。これが捜索の端緒となった。そして、佐賀藩の捕吏が瀬戸へ乗り込んだものの、徳川御三家筆頭の尾張侯領内のため、勝手に踏み込みが出来ず商人や職人などに変装して捜索した。だが、瀬戸の窯焼達も巧みに彼を隠匿して警戒しているので、捕吏達はどうにも手を下すことが出来なかった。

 そこで、皿田代官所の下目附小林伝内は、顔料の呉須売りに変装して目星をつけた窯焼きへ入って買ってくれとしきりに頼んだ。
応対した主人は自分では品質の見分けは出来ないが、幸い専門の人が居るから鑑定させるとその品を別室に運んだ。鑑定の結果、品質は悪くないが、値段が少々高いから値引きしてくれと言う。

 すると伝内はその呉須を手に取って見て、これは今自分が渡した品でない。別室で他の劣等品とすり替えたに違いないと言い掛かりをつけた。主人は以ての外と驚いて弁明した。だが、伝内は承知しない。主人も立腹し遂に立ち上がっての喧嘩になった。別室で耳にしていた勇七が一刀を引っ提げて飛び出して来たので、伝内は得たりと大喝一声難なく取り押え捕縛して佐賀城下に護送したのである。

 糾問を受けた勇七は、この上は世界無比の絶品を命にかけて仕上げ献上するから、生命だけは助けてくれと嘆願した。

かっては寵愛した者であり、根が慈悲深い藩主治茂は死一等を減じたい意向を漏らしたが、藩法は曲げることは出来ないとして、寛政十二年(一八○○)十二月二十八日、嘉瀬の刑場で斬首された上、他の工人達へのみせしめと大川内の街道鼓峠に晒し首にされた。

 勇七の遺品としては、彼が生前郷里泉山の弁財天社に奉納した唐獅子がある。太白の罅出し磁器で姿勢骨格共に優秀な作品と称されている。

 なお、「日本陶磁器史論」という書には勇七が行った所は瀬戸でなく砥部とある。だが、「肥前陶磁史考」では有田の古い資料からして瀬戸と断定されているので、これに従った。勇七を捕縛した伝内はこの功によって足軽から士籍に昇進している。
 勇七が遁走していた寛政九年(一七九七)から翌十年にかけて、皿山の製法が遠く東北の会津まで伝播して会津磁器が創始されている。

 会津の瓦師の子孫という佐藤伊兵衛が、瀬戸、信楽など各地の陶産地を転々として大阪まで来た。ここでどうした因縁か鍋島藩の御用商人布屋から、その菩提寺高伝寺への添書を得て肥前に下っている。高伝寺からの磁器伝習は出来ないので、その寺男になりすまして皿山へ何度となく往復した。そして、その製法を探り得たので、長崎に行って呉須その他の材料を購入して帰途についた。会津に帰り着いてから藩の保護の下に磁器製造を開始した。寛政十年のことである。

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