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第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(五)十八世紀に於ける三つの文様
 柿右衛門家は初代が寛文六年(一六六六)に死去してから暗い時代を迎える。二代は初代より先に死に、三代も初代死後六年目に他界し、死後一年目にお道具山は大川内山に移されている。後を継いだ四代と五代が凡庸だったのか、家運は傾いて遂に延宝三年(一六七五)には藩用を差し止められた。元禄四年(一六九一)に五代は三十二才で死んだ。その後四年目に相続した六代は五才だったため、叔父の渋右衛門が後見することになった。この叔父は抜群の名工であった上、刻苦勉励六代を守り立てたので、十八世紀の初め頃から優秀な製品が出来て立ち直ったのである。差し止めから約半世紀後の享保八年(一七二三)に藩用が復活している。そして、安永三年(一七七四)には八代柿右衛門は藩主治茂にお目見えを許されている。この時期以降幕末までを西田宏子は柿右衛門様式の第四期としている。 だが、「未だ明らかにならない点が多いので、将来この時期がもっと細かく分類される」として研究を将来に委ねている。

 矢部良明は鍋島様式を初期、盛期、後期とに分類している。時代的には初期は十七世紀、盛期は十八世紀、後期は十九世紀に当たる。十八世紀即ち、盛期鍋島様式をまとめて矢部はは次のように述べている。

「初期以来、盛期でも白磁に青磁、そして若干瑠璃釉や褐釉がくわわり、基本的には染付に赤、黄、緑の三色の釉だけで表現される鍋島文様は、色彩が技術的に完璧であるばかりでなく、不純な色合いが持つ美しさが認められないだけに、様式美が退廃におちいる危険性が希薄であった。それゆえに、どこまでも鍋島調は健康美に満ちている。

その情緒は四季でいえば、いつも春の気分でつらぬかれ、夏や秋、冬のもつ別趣の情感が鍋島焼にはないのである。情調はどこまでも雅びであり、うららかである。盛期にいたってさらにこの表現が優美なものとなったが、基本はかわらない。筆舌につくしがたいほどの沢山の文様が工夫案出されていながら、その文様はつねに他の追随を許さぬたくましい装飾意欲をもって、鍋島ならではの様式化がおこなわれ、比類のない、独特の唯美の世界に染めあげられてしまう。」と

 十七世紀の後半から明末中国の染付や色絵磁器に先ず啓発された上、当時庶民の絵画として人気を呼んでいた浮世絵版画とオランダ東印度会社などからもたらされた異国趣味を巧みに取り入れた古伊万里様式は、十七世紀後半から十八世紀初頭まで、柿右衛門様式と共に対欧輸出磁器の花形となって黄金期を迎えたのである。
だが、十八世紀後半にはオランダ東印度会社の輸入中止などで全く途絶したことは前章でも記述した。

 その後の古伊万里はどうなったか、有田町史陶芸編から見てみよう。

 「古伊万里が延宝・元禄・享保・宝暦という黄金期を過ぎると、国内の需要はいちだんと高まり、とくに庶民階級にまで普及したので、分業体制はいっそう進み、量産時代に人った。その結果として、成形もやや粗雑になり、格調の鈍い型物も作られている。したがって明和元年(一七六四)前後から文政十年(一八二七)前後までの製品を古伊万里爛熟期として分類することができる。この時代には庶民層によろこばれる染付や色絵の(中略)大衆的な日常の雑器が多量に生産されている。中国的な趣味を離れて、いかにも日本磁器らしい古伊万里が庶民層の日常生活用具として普及していった時代であった。」

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