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第五章 十九世紀前半の皿山
(一)瀬戸の磁祖加藤民吉のこと
 副島勇七から磁器の技法を伝授されたものの瀬戸の磁器への道は遠かった。瀬戸の陶器の歴史は古い。仁治三年(一二四二)に加藤四郎左衛門景正がこの地の良質の陶土に着眼して窯を築いたことからはじまる。

 延宝年間(一六七三−八○)尾張藩主徳川光友は瀬戸焼の原料祖母懐の土を藩の御用窯の外一切使用を禁じた。又、陶家には一戸に付きろくろ一つと制限した。そこで戸主でない一家の者は鋤鍬をとって百姓になるか、土方人足になる者が多かった。

 寛政十二年(一八○○)頃、当時尾張国熱田新田の開墾奉行だった津金文左衛門胤臣が新田の開墾地を巡視中に、鍬使いがとても下手な一団の人夫がいるので、その素姓を訊ねた処、元瀬戸の陶家の者だと答えた。更にリーダー格の加藤吉左衛門を呼んでその事情を糺したのである。
彼は次男民吉の就業のため、人夫をさせていると答えた。

 たまたま、胤臣は中国から伝来の原書で南京石焼の口伝を読んで磁器のことを考えていた。そこで、翌年吉左衛門父子を瀬戸へ帰して、庄屋をしている本家の加藤唐左衛門高景を協力させて白磁製作の研究に没頭させた。唐左衛門も副島勇七が加藤久米八や同忠次等に磁器製法を伝えた当時から同じ希望を抱いていたが、適当な原料を得られずにいたのである。

 それから彼等は胤臣の原書にヒントを得て知多郡翔缺村の原料を吟味し刻苦奮励数十回も試焼した末、漸く似よりの盃四・五を焼き上げ胤臣に示した処、彼は非常に喜んで早速熱田新田の古堤に築窯しようとした。

 ところが、瀬戸では本業の陶器に影響すると反対が起こった。この間に立って当惑したのは庄屋の唐左衛門だった。従来の瀬戸窯焼達が瀬戸の死活問題だと騒ぎ立てるのに、代官の水野権平も同調した。だが、唐左衛門の斡旋によって藩家老送水甲斐守が裁断して、これを熱田でなく瀬戸でやることにした。胤臣も承諾してこの事業を新製と称して陶家の次男以下にやらせると定めたのである。

 そして、享和二年(一八○二)十一月、瀬戸で初火入れをした。だが、結果は甚だ不完全だった。翌年、胤臣は七十五才で死去した。衆議は誰かを有田へ潜行させることになって民吉が選ばれたのである。彼は必ず秘法を習得して帰ると誓って享和四年(一八○四)二月、瀬戸を出立したのである。

 その時の民吉の行動は用意周到だった。
尾張国愛知郡菱野村生まれで、今は肥後国天草の東向寺の住職をしている天中を頼って、天草の高浜に上陸したのである。

 天中は民吉の目的と志を聞いて、この地の窯焼上田原作に周旋した。彼はそこで半年間一生懸命に働いた。だが、上田は肝心の磁器の施釉法だけはどうしても教えてくれない。そこで或る日、民吉は長崎の諏訪祭を見たいという口実で天草を去った。

 懐中には天中の添書があったので、彼は平戸領佐世保村の西方寺を訪れた。文化二年(一八○五)のことである。西方寺は折尾瀬村の薬王寺を紹介してくれたので三河内の窯焼今村幾右衛門方に職人として住み込んだ。だが、間もなく藩の人別調べがあって、他国人は一切この地に滞在させてはならないという布告があったので、又、薬王寺の寺男に戻ったのである。

 その内に彼は江永山の某女を妻としてこの地の環境に溶け込んだ。そして、この地の久右衛門という窯焼に住み込むことが出来た。だが、当時の江永山の製磁技術は三河内より随分遅れていることが分かり、三河内へ帰る機会を窺っていた処、本場の有田は一里半ほどの道のりと聞いた彼は、伝手を得て有田皿山に潜入したのである。

 彼は泉山の築窯師堤惣左衛門の家に寄寓することが出来た。そして、丸窯の構造や還元焔の焚き方などを熱心に見学していた。だが、余りに真剣な態度を怪しまれているのに気付いた彼は慌てて薬王寺に帰ったのである。

 しかし、ここでも身辺に危険を感じた彼は、妻の親の注意もあって同年十二月、妻と共に出奔して佐々村の市の瀬鴨川の窯焼福本仁左衛門方に身を寄せた。
仁左衛門は民吉の精勤ぶりが気に入り、胸襟を開いて釉薬その他の製法を詳しく伝授してくれた。これで全くその目的を果たした彼は妻に因果を含めて文化四年(一八○七)単身この地を去った。

 彼は帰途長崎から天草に寄って東向寺を訪れて厚く謝した後、上田家へ参上し先に欺いて去った無礼を深く詫びてから自分の素姓と目的を明かしたのである。それを開いて却って感動した上田は自家秘伝の赤絵付けの法を伝授したといわれている。

 彼は瀬戸への途次、肥後国八代の高田窯を見学して同年六月十八日、三年ぶりに瀬戸へ帰着したのである。彼が製磁の法を得て帰ったと、瀬戸は勿論、熱田奉行で胤臣の嫡男である津金元七胤貞の喜びは一方でなかった。

その三年後の文化七年(一八一○)に瀬戸磁器の祖加藤民吉保堅は五十三才で卒去した。

 平戸藩では民吉を匿ったという罪によって、薬王寺第十三世の住職雄山泰賢は、国法に従い傘一本を持って国外へ追放されたのである。又、佐々に残された民吉の妻女のその後のことについては何ら伝えられていない。
 その後瀬戸では木節や蛙目などの優良な窯業原料が次々に開発されて民吉がもたらした磁器を益々盛んにしたのである。そして、それから百年後の二十世紀初頭、有田が独占していた磁器日本一の座を奪う程の強力なライバルになって今日に至っているのである。

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