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第五章 十九世紀前半の皿山
(二)皿山住民が神に祀った名代官
 皿山代官所は正保四年(一六四七)から廃藩置県の明治四年(一八七一)までに百二十五年続いて、代官には四十一名が任じられている。その中で退官後皿山の住民によって生きている間に神に祀られた代官がいる。それは二十一人目の成松万兵衛信久ただ一人である。李参平碑の南、連華石山の尾根にその祠の石碑が今もある成松社がそれである。

 信久は文化十二年(一八一五)三十八才の時、皿山代官に任じられ、文政八年(一八二五)まで十年余その任にあった。そして、任満ちて佐賀に帰った後、皿山の住民達がその徳を追慕して建てたのが成松社である。だが、明治になって祠の石質が悪く湮滅(消えてなくなる)寸前だったので、明治二十三年、有田の有志達が計って陶山神社の裏公園に頌徳碑を建立した。横尾謙が撰文したその碑文によって成松信久の業績を追うことにする。
 信久は、元亀元年(一五七○)豊後の大友宋麟が大軍を以て竜造寺領の佐賀へ侵攻して来た時、鍋島直茂と共に今山の大友本陣を夜襲して大友軍を敗りその将大友八郎を討ち取るという戦功を立て、百武志麻守や江里口藤七兵衛等と竜造寺家の四傑と称された成松遠江守信勝の十一世の孫として、安永七年(一七七八)佐賀に生まれた。そして、十六才にして父の後を継いで二十三才の時、評定所究役試補になっている。

 文化十二年(一八一五)代官として有田に赴任したのである。当時の有田皿山では祭礼や雨乞いには必ず浮立を打って囃す慣習だった。そこで皿山の十区はどの区も大小七・八個の鉦と横笛、大太鼓等一組づつを備えて、練習を怠らなかった。そして、神事当番は二区で五年に一回回ってきた。

中でも上幸平は十二人担ぎの一番鉦の大きいのを誇りとし、本幸平は三番鉦の音色を自慢にしていた。だが、奏曲では白川が一番上手といわれていた。

 神事や雨乞いの時、道でこの二区の浮立がぶっつかると、曲は忽ち急調子になって必ず大闘争を起こして血の雨を降らすことさえあった。それ程当時の皿山住民の気風は荒くて殺伐だったのである。赴任早々の信久はこの住民の気風を温順なものに変える事が治政の第一歩だと決意した。

 そこで彼は部下に命じて、日を定めて同じ年に神事当番になる二区づつ五組の浮立を陶山神社の神前に集合させて囃させることにした。そして、当日は神殿の正面に据えた床几に信久が座して観覧することになった。代官の目の前であるから奏楽が終るまで争いは一つも起こらなかった。
これは役人が事前に代官が目的とする意向を全員に知らせていたからでもあろう。だが、この催しのあってからは皿山の浮立喧嘩は全く影をひそめたという。

 又、ある裁判事件では、信久と親しい人が、入浴している代官の背中を流しながら、自分の方に有利になるよう裁決を頼んだ。だが、信久はそれを取り上げなかった。文化文政の頃世は平和で華やかな奢移(ぜいたく)が流行していた。だが、宋藩の財政はひどく窮乏していて、皿山代官所年間の庁費は僅かに五石に過ぎなかった。そこで庁舎の屋根棟が破損して執務にも支障を来たすので、信久自ら篠竹を伐って来て縄を挿したり莚で縛ったりして雨露をしのいで、ひたすら陶業の繁栄と住民の福利とを念として他事はなかった。

 陶業に対する彼の施策で特筆すべきことは窯焼の製品々種別制度を設けて、他山が追従出来ないまでに熟練させて各山の特色を生かすことにした。そのために各山の製品々種を限定したのである。即ち、南川原山は型打丼類、外尾山と黒牟田山は型打角鉢及ぴ小判型皿、広瀬山は漱丼と八角丼、応法山は神酒瓶及び小鉢、市の瀬山は六角丼等である。この制度は有田内山にも行なわれ泉山、上幸平、中樽は膳付物即ち食器類とし、大樽は丼と鉢、白川、本幸平、稗古場は皿丼に花瓶と定め、岩谷川内は火入れと弁当重に限定した。

 同時に大川内藩窯の製品様式を侵すことを厳禁した。例えば高台皿の形状及びその櫛手文様、或は梅花を撒布する模様などや、染付茶碗に清楚な春蘭を描く様式等である。
 安永三年(一七七四)有田焼の朝鮮向けの販売を試みた者もいたが、朝鮮の民度が低かったので、安い等外品でなければ売れなかった。その頃佐賀藩は対馬藩主を経由しての朝鮮輸出を認めていたので、藩主宗氏は伊万里の陶器商へ朝鮮用達を命じていた。だが、業績が上がらないので、その後稗古場の窯焼北島万吉と赤絵町の北島源吾の二人が専ら扱っていた。それを文政三年(一八二○)成松代官は朝鮮向け輸出の権利を、赤絵町の北島にその一手営業として許可している。

 在任十年の間に皿山住民の闘争心の強い剽悍な民心民俗を協調心に富んだ温順さに変えたことと、各山に品種別生産制を断行して、分業専門化による陶技の向上を計ったことは正に信久の比類ない業績といえよう。彼の死去の年は頌徳碑文にも明らかでない。

だが、その中には「死するや」でなく「任満つるや」住民がその徳を慕ってとあることからして、彼が佐賀に去って直ぐだと想像されるが、三年も経過した後だとは思えない。何故かなら、三年後の文政十一年(一八一八)には有田皿山の内山全山は未曾有の大火のため、灰になって仕舞っているからだ。 従って彼は生存中に祠に祀られたことになるのである。

 ちなみに、皿山代官最後の四十一代の百武作十兼貞は信久の子息である。

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