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第五章 十九世紀前半の皿山
(三)文政の大火と皿山全滅
 信久の治政宜しきを得た皿山は、住民の気風も温順になり、又、陶業も彼が断行した品種の分業専門化によって品質は向上して春風駘駘蕩たるものであった。しかし、この状態は長くは続かなかった。信久が任満ちて皿山を去ってから三年目の文政十一年(一八二八)八月九日、前代未聞という強大な台風に襲われ、それが大火を引き起こしたのである。

 古い文書にはこの台風を颶風と称しているから、風速は三十米以上と思われる。内山では九日の正午頃から北東の風が吹き荒んで雷を伴った豪雨になった。屋根瓦が吹き飛ぶ中に岩谷川内の窯焼山口森吉方の素焼窯の火が飛び火して大火となった。火焔は金比羅山を焼き越したのである。そして、忽ちにして全内山を舐め尽くした。予て火には馴れている住民も手の施しようがなく、全内山は阿鼻叫喚の果て、岩谷川内四十戸、白川百戸、泉山の年木谷十戸を残すばかりだった。
さしも繁華と言われた千戸の焼物の町はすっかり跡形も無くなったのである。

 町中で焼け残ったのは造りの頑丈な数軒の土蔵だけだった。それに物凄い豪雨のため、河川は氾濫して洪水になった。当時町には橋梁は無く飛び石と仮橋だけだった。だが、仮橋も全部流失して人々は逃げ惑う有様だった。登窯の中に逃げ込んで焼煙のため、窒息死した者もいた。中には高手の井戸に忍んで漸く一命を得た者もいた。この時不幸にして焼死や溺死した者は内山で五十名を越えた。

 佐賀藩全体の焼失家屋は千六百四十七軒と記録にあるから、皿山の八百五十軒はその半数以上である。この台風は九州から四国、中国、北陸、東北地方まで荒らした。だが、佐賀領の被害が最高で、石高三十六万右の九十%三十一万石の損害を蒙っている。次が八十%の加賀七十八万石。

七十%の仙台四十三万石、肥後三十七万石、久留米十四万石、阿波十七万石。六十%が薩摩四十一万石、越前十四万石。五十%が備前十四万石とあって、如何に全国的に被害が甚大であったかが分かる。当時の佐賀藩は手許不如意だったが、藩主斉直は三千両を救恤(助け恵む)している。

 皿山では殆どの登窯の屋根が焼失して白川の一窯だけが無傷だった。辻家を初めとして各旧家の古器珍什は勿論系図などの文書は全部灰になって仕舞った。又、寺々の過去帳も焼失した。だが、白川に在った代官所は難を免れているようである。

 全山焼土と化して焼け出された数千の難民達は住むに家なく、着る物も食う物もない状態だった。そこで焼け残った白川と年木谷の窯焼の門前には夜な夜な難民が群がった。
これらの窯焼は毎日家内総動員で握り飯を作ったり、粥を炊き出したりの救恤に忙殺された。又、近くの農村の畑から野菜や果実を盗む難民もいたと言う。

 焼失を免れた岩谷川内の質屋正司庄治は、大火のため貸金三百両を失ったが、質流れの衣類二百点を初め家財と有るだけの米麦二十俵を全部難民に与えた。そして、自分は全身代三百両以上を空しくしたと言う。庄治は通称であって諱を考祓、号を大谷にちなんで碩渓とした。だが、墓碑銘にはこの号であるから以下碩渓として述べる。

 この大火によって家も職も失った工人達で外山、大外山や波佐見、三河内へ移住する者が続出した。中でも大外山の小田志山へは百人以上が転住している。

その結果は、当時最高だった内山の技術の流出によって内山以外の肥前各陶産地の製品を急速に向上させた。

 肥前陶磁史考の著者中島浩気はこの現象を、東京大震災の時下町の住民が山の手へ大量移転して今日の大東京を現出したことに例えて、内山崩れの工人散布が今日の大肥前窯業圏を形成する動機になったと述べている。興味ある見解と言えよう。
 翌文政十二年(一八二九)藩は、火災にあった佐嘉城本丸の復旧工事を始めた。だが、有田皿山からの献金は免除した。又、藩は皿山の窯焼の復旧に助力してその資金を低利で貸与した。諸制度も大火以前通りとして、改めて窯焼名代札二百二十、赤絵屋名代札十六、陶器商人札十八を下げ渡したのである。

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