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第五章 十九世紀前半の皿山
(四)正司碩渓のこと
 この大火の時、難民を救うのに私財の殆どを投じた正司碩渓は江戸期の有田が生んだ、最も傑出した学者であった。この人の生涯を草場佩川が撰文した墓碑銘に基づいて、有田町史と肥前陶磁史考との記述で補足しながら追うことにする。

 碩渓は諱を孝祺、幼名を米十、通称を庄治(町史には正治とある)と言い、家が大谷に近いので、碩渓を号とした。又、南鴃とも称している。出雲の尼子氏の子孫で、その祖は肥後を経て武雄西山村に移り、その後有田皿山に移る。そして、彼は寛政五年(一七九三)有田で生まれた。

 家業は曾祖父源七郎が始めた、絵書きが使用する絵筆の販売だった。兄の儀六郎は窯焼になったので、彼が家業を継いで当時の金融業である質屋を始めた。
その傍ら読書を好み、特に伝記類については実に広範に渉っていた。家業にも励んだので、かなりの財をなしたことは彼が手控えにしていた「永代帳」によって明らかである。又、家の庭に小さな祠を建てて聖人達を祀ると共に家業の合間に近くの子弟達に教育を施したので、遠近から教えを請いに来る者が絶えなかった。

 前述した通り文政の大火で財を空しくしたものの、家業は居宅と共に三男の碩斉に譲った。そして、自分は家の西に当たる岡を開墾して三軒の家を作って人に農業を営ませた。そこに別に小庵を建てて住いとし、専ら著述と読書とに精力を傾注した。これがこの辺りを開、即ち「ひらき」と称する由来である。

 天保二年(一八三一)二十巻からなる「経済間答秘録」を著わしている。儒学に基づく経国済民の書である。

そして、予て親交のあった草場佩川を通じて、佐賀藩の冨強策を藩主直正の側近古賀殻堂に提出している。佐賀藩の天保改革にもこの策が取り入れられたことは言うまでもない。

 天保三年(一八三二)四十才の時、江戸への遊学の旅に出た。途中諸藩に立寄り、江戸では幕府の儒官佐藤一斉や神田お玉が池の詩人大窪天民、儒学者の安積良斉等と交際した。これらの人は彼より二十才以上の年長であるから、学ぶところも多かった。帰途大阪では町奉行所与力の大塩平八郎中斉を訪ねている。同年輩であり、儒学でも朱子学より開明的な陽明学者として著名な大塩の経論に共鳴したのか数ケ月も逗留している。それから二年後に大塩の乱が起こって、翌年の天保八年に大塩は自刃して果てたのである。

 帰国後は益々著作に励んで天保六年(一八三五)には古今武将の言行録的な「豹皮録」百巻を著わした。
これには広瀬淡窓、帆足万里、篠崎小竹、草場佩川等当時の儒学者達が序文や跋文を寄せている。この書を読んで感動した平戸藩主松浦肥前守源煕は推賞して左の和歌一首を贈った。

 やますみは人しらねどもかきおける文こそ四方の海の果てまで

 彼は平戸藩と大村藩には時々招かれて兵学を講じていたのである。又、伊豆韮山代官江川太郎左衛門担庵が長崎から砲術の師として高島秋帆を招聘した時、秋帆の親友である彼にも共に誘いがあり、再三出廬を奨められた。だが、病身を理由に断わっている。

 嘉永四年(一八五一)には「家職要道」八巻を著わして商人の日常道徳と家業繁盛の道を平易に説いている。この本は全国的に広く読まれて彼の代表的な名著である。そのことを証明する事柄がある。

それは大阪の時計商生駒権七という人が、これを読んで感動し自分の修身斉家の道はこの本にあるのだとして奮励努力した結果巨万の富を成した。これ偏にこの書のおかげだと由来を述べて謝し、碩渓の子孫へ金若干と置時計を明治四十年代に贈っている。更に、大正二年には明治天皇聖徳記二百部に金百円を添えて故人の祭祀料にと贈っているのである。

 その他の著書としては、東遊百絶一巻、武家七徳十八巻、大村路日記一巻、環堵日記二十巻、天明録五巻、視聴漫筆一巻、セーアルテルレリー二十一巻、製硝秘録二十一巻、軍法秘書、地理秘書各一巻、碩渓遺稿三巻がある。佩川はこれについて、どの書も巻を重ねると等身大に達する程ですべて国家有用の書であると記している。
 開の山荘に彼を訪れる天下の有志墨客は後を絶たなかった。三菱の創業者岩崎弥太郎も筆跡を残している。又、安政の初め、文政の大火の経験をふまえて設計された岩谷川内の眼鏡橋が出来ている。これも碩渓が監督して大谷や猿川の石を運んで堅固に構造されたものである。

 彼は生来多病で危篤状態に陥ることも数回あった。だが、世を憂い人を救うの志節を以て耐え抜いてきた。しかし、安政三年(一八五七)春、病になって中々癒えず翌年十二月、六十五才で死去し、彼の山荘のある開に葬られた。墓碑の表には碩渓先生の墓とあり、その側面と裏面には佩川の碑文が刻まれている。

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