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第五章 十九世紀前半の皿山
(五)天保の頃の有田皿山
 文政大火の後、皿山は全山あげて復旧再生へと懸命に努力を続けていた。一方三十一万石という被害を蒙った佐賀藩も、藩始まって以来という最悪の危機に直面していた。フェートン号事件の不始末や放漫な政策など失政が続いた九代藩主斉直の後を直正が継いだのは天保元年(一八三○)のことである。

 そして、初の御国人りとして、当時十七才の直正の行列が江戸を出発したのは、三月二十二日であった。一行が品川宿に着いた時、江戸の債権者の商人達が押し掛けて来て借金の催促をしたため、身動き出来なくなった。江戸屋敷の金庫は空で供の者連の支度金も払えない有様だったのである。この騒動で年若い新藩主は藩の財政事情を知ったのである。
 佐賀に着くなり直正が調べた処、文政の台風の被害で歳入は激減しているのに、長崎警備や江戸かぶれで藩全体が派手になった生活慣習のため、支出は変わらないので、藩財政は正に破産寸前という最悪の状態だった。そこで、国入り早々の五月一日、直正は質素倹約令を布告した。

 翌天保二年(一八三一)には古賀殻堂が、碩渓の倹約富強論を取り入れて起案した藩の再建計画を採用して直正は本格的な藩政改革に着手した。それは勤労と倹約を奨励すると同時に藩の特産である米と磁器の積極的な産業奨励政策の実行であった。倹約については、具体的に食は粗食として朝は味噌汁と漬物だけ、昼と夜には干し魚か魚の煮焼きの物程度をつける。

衣は木綿以外は着てはならぬ。婦人の銀簪は法度。冠婚葬祭の徹底した簡素化。芝居興業など遊芸の停止など思い切ったものであった。真夜中に花嫁が巡見の下目付から絹の衣裳を剥ぎ取られた上、銀の簪も取り上げられるという事件もあった。

 このような改革が強行されている最中の天保七年(一八三六)全国的な天候不良のため、飢饉になって折角復興途上の皿山を脅かしたので、翌年一月、直正は皿山代官の請いを容れて内庫所の資金を窯焼に貸して救済した。

 大火から飢饉という最悪の状態の続いた皿山の人心は、折角成松代官によって温順になったのが又、荒んできた。それに代官に人を得なかったため、物情は騒然となって紛議が絶えなかった。
 そこで藩は、天保九年(一八三八)上幸平の皿出会所の中に教導所という部署を設けて役人二名を新たに置いて、厳罰を以て取り締まった。

 しかし、直正は法による規制だけでは十分でないとして、民俗、民心を精神的に教導する目的で藩内有数の儒学者草場佩川を教導所へ派遣したのである。

 天保年間、漆器に蒔絵を施してオランダ人との間に貿易をしていた長崎の漆器商浅田屋茂兵衛というのが陶磁器に蒔絵することを創始した。中野原の豪商久喜与次兵衛昌常はこの浅田屋と提携して有田焼を長崎へ送って販売していた。その頃オランダの船長の依頼で与次兵衛は本国から送って来たという磁器を鑑定した処、有田焼に相違なく、百余年前に嬉野次郎左衛門が密輸したものと思われた。

これが機縁となってオランダ領事と交渉した結果、久富の直接輸出の商談がまとまったので、藩庁へ願い出てオランダ貿易の一枚鑑札を許された。同時に長崎に支店を開設した。天保十二年(一八四一)のことである。富村勘右衛門の密輸事件以来、柿右衛門の外は有田焼の輸出が久しく途絶していたのが茲に復興の道が開かれたのである。

 同年八月、直正は農民経済の基本は農地の均分化にあるとして、西松浦郡に限って加地子(小作料のこと)を向こう五ケ年間三分の一だけ軽減すると命令した。
同時に小作人に対しては小作料の軽減された分を貯蓄して土地を買い取るよう命令した。世人はこのことを加地子バッタリと称した。打撃を受けた主なる有田郷の大地主は中野原の久富与次兵衛、新村の前田儀右衛門、松村丈右衛門等であった。終戦直後のマッカーサーによる農地改革を先取りしたような思い切った改革であった。

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