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第六章 幕末から廃藩置県までの有田
(一)幕末時有田焼の流通
 幕末という時期は嘉永六年(一八五三)ペリーの浦賀来航から慶応三年(一八六七)の大政奉還王政復古までの十五年間とされている。この短い間に有田は、文政の大火とそれに続いての天保飢饉によって壊滅同然の苦境に陥っていたのを見事に克服して最も充実繁栄した時期を形成している。その原動力は何であったのだろうか。

 それは藩による流通の統制であったといえよう。即ち、嘉永元年(一八四八)藩は山方の中に国産方を置いて長崎のオランダ人へ有田の磁器を主とする藩の特産品の販売を積極的に始めた。翌年六月から国産方を山方から分離して独立した部署として、有田焼の製造を奨励すると共に、皿山や大川内の陶磁器流通に直接関与したのである。
 そして、嘉永六年には長崎奉行の認可の下に、長崎の豊後町に佐嘉商会を設立して直輸出の道を聞いた。その翌年四月には長崎聞役(藩の長崎駐在連絡責任者)鍋島新左衛門にその取締を命じている。一方皿山でもこの時期、復興に伴って数多くの名陶家を輩出している。禁裏御用達の辻喜平次、宗伝の子孫である泉山の深海平左衛門と同乙吉、大樽の田代伴次郎、白川の南里嘉十等である。

 藩から貿易の一枚鑑札を得ていた久富与次兵衛の長崎大村町の支店は、当時久富与平が後を継いでいたが、加地子バッタリのため、家産も傾き経営に行き詰まったとして安政三年(一八五六)にその鑑札を本寺平の田代紋左衛門へ譲渡している。こうして田代は英国貿易の名義で有田焼輸出の利権を占有することになった。

この占有に対して他の同業者から反撥もあった。だが、剛気の紋左衛門は屈することなく業を益々拡張して、弟の慶右衛門に長崎西浜町の支店を運営させた。

 又、安政六年(一八五九)神奈川の開港後、横浜にまで支店を設立するに至った。

 その後長崎の佐嘉商会主幹の松林源蔵は藩主閑叟の内意を合んだ上、上海進出を企画し、久富与平と田代紋左衛門とに交渉した。与平はその頃英商グラバーと計って高島炭鉱の経営に専念していたので固辞した。そこで紋左衛門独りでその衝に当たることになった。そして、齢は若いが、多少商売の経験もあり、英語も少々話せる上に漢学の素養があるので、中国人との筆談が出来る手塚五平を田代兄弟は支店長に推薦した。
 慶応三年(一八六七)小城藩所有の大木丸二百屯に、高島炭鉱から与平の石炭を下積とし、有田焼を上荷に積んで五平以下三十余人が長崎から上海へ向かった。そして、オランダ領事の斡旋で英租界小東門外三馬路の地に開店したのである。だが、その後の維新の大変動によって田代紋左衛門の単独経営となり、商号も田代商会と改めて専ら有田焼を販売して、その声価を高めた。

 以上が幕末期の有田焼輸出の概況であるが、国内流通についても藩の専売制度が嘉永二年(一八四九)頃から本格化している。その地域は京都、大阪、堺、尼ケ崎、西宮、兵庫に近江、大和、河内として、佐賀藩の大阪蔵屋敷に水揚げされた有田焼は藩が指定した仲買商三十九名の入札によって販売されることになった。その間伊万里の商人は有田焼の自由販売を主張し続けたという。

 又、王政復古後の明治元年(一八六八)に当時改革派といわれていた深海平左衛門、百田多兵衛、深川栄左衛門等の主張を藩は儒医西岡春益の斡旋によって認め長崎貿易鑑札を十校に増やした。田代紋左衛門の外に泉山の深海平左衛門、百田多兵衛、鶴田次兵衛、上幸平の石川太左衛門(酒屋)大樽の平林伊平、本寺平の深川栄左衛門、武田弥吉、赤絵町の富村森三郎(赤絵屋)岩谷川内の山口伊右衛門の九名である。(括弧のないのは窯焼か商人)

 この陶磁器の専売制度について有田町史は「鍋島直正公伝」から左の通り引用している。
 「佐賀藩主鍋島直正は天保元年(一八三○)家督を継いでから十年間財政困難の時代を切り抜けて歳費に余裕を生じ、更にまた十年の努力を払って軍用金貯蓄の余力を生じたので、嘉永二年国産方を独立させ、経費として正銀五千貫目を十ケ年間支出して殖産興業政策を実施する事にした。国産方はその利殖として得た利益金を以て砲台の構築や銃砲製造の資金を作ることを目的として設置されたものでなく、全く殖産興業のみを目的として設置されたものであるという。」

 この一文は国産方の販売によって得た利益金は軍事力の強化には充てずに殖産興業にのみ充当したと強調している。

だが、これはあくまで建前の言葉に過ぎないと思われる。というのは町史を編集した宮田幸太郎氏によればこの幕末十五年間の貿易に関する資料は一片だに残ってなくすべて故意に湮滅(分からないようになくしてしまうこと)されたものと想像されると嘆いていた。又、作家の司馬遼太郎も同じことを述べている。

 僅か二十年足らずの間に佐賀藩の軍事力は驚異的に発達強化されている。反射炉も幕府より七年も早く完成して新鋭の銃砲を製造し、最後には最新鋭のアームストロング砲三門をイギリスから購めた上、同一品の製造にも成功している。又、軍艦も数隻購入している。

 そして、幕末の終期、佐賀藩の軍事力は、当時世界で最強といわれたプロシヤにも匹敵したと司馬遼太郎は書いている。
又、閑叟自身が側近に語ったこととして、我が藩は他のどこの藩と戦っても一人の兵を以て十人の敵に対抗出来ると豪語していたという。

 このためには莫大な資金と武器購人のルートとを要したに違いない。司馬遼太郎はその金額は年間にして十五万石に相当するとして、その大部分が藩の専売による有田焼の密貿易より得たものと推定している。又、武器のルートは、長崎に常住してその店を事務所として藩に提供していた久富与平と、安政五年から長崎に定着したグラバーとによって形成されたものと想像される。

 与平は貿易の鑑札を田代に譲渡したことになっている。

だが、これはあくまで表向きのことであり、表面には田代を出し武器購入などに関わる商行為は与平等の協力で藩が直接に関与したのであろう。有田皿山がこの時期空前の繁栄を見せたのは、このことに原因しているといえよう。そして、幕府倒壊後直ちに貿易鑑札を九枚も増やした事も、隠密にする必要がなくなったので、これまで協力した者を表面に出したに過ぎないとも言える。  ともあれ、上野の戦争で幕軍を壊滅させて、幕軍が最後の牙城とした会津若松城を陥落させたのは、アームストロング砲であった。又、榎本武揚の幕軍を函館五稜郭で敗って討幕戦を終らせたのも佐賀の海軍であった。この大砲も軍艦も吾が有田の磁器がもたらしたものである事は有田町民として銘記すべきことと思うのである。

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