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第六章 幕末から廃藩置県までの有田
(二)赤絵屋に関連した二つの事件
 オランダの商人達は純白の素地と軽い薄手の焼物を好んだ。それには有田焼より三河内焼が適していた。与次兵衛の頃から、外国向けのコーヒーセットなど普通品は三河内に素地を注文して有田で赤絵を付けていた。勿論これは佐賀藩の禁制だった。だが、長崎奉行は国の利益のため、見て見ぬふりをしていた。紋左衛門も三河内素地を仕入れて数軒の赤絵屋達に異人向きの赤絵を描かぜていたのである。

 紋左衛門の独占に反対していた窯焼違は慶応二年(一八六六)上絵付けした彼の未焼品を手に人れ、証拠の銘がはげないよう紙を貼って皿山代官に訴え出た。この時の代表は泉山の深海政之助、大樽の手塚倉助と平林伊兵衛の三人だった。代官はどう勘違いしたのか「紙を貼ったのは代官が証拠隠滅するのではないかと疑った処置だ」とかんかんに怒り、三人を殴りつけて逮捕した。
 おさまらないのは窯焼達で近くの勧請寺(今の陶山神社社務所)に立て篭り代官に抵抗した。一同は本藩の公平な裁決を受けようと全員佐賀表へ押し掛ける準備を始めたので、慌てた代官は代表三人を釈放して騒ぎを鎮めたのである。一方、紋左衛門の子助作も逮捕され、田代屋の依頼で三河内素地に絵付けしていた四人、即ち赤絵町の北島源吾、大樽の小島理兵衛に辛島弘助、稗古場の古田森吉等は青竹閉門に処せられた。紋左衛門が追及されなかったのは、既に苗字帯刀を許された士分だったことと貿易は助作名義だったからである。紋左衛門は三河内素地の在庫品をひそかに近くの薬研川に捨て誠意を示したので、助作はやっと釈放された。だが、さすが豪気の紋左衛門もこのショックで事業を放棄しようかと思ったという。これが第一の事件である。

 文久二年(一八六二)長崎奉行高橋美作守から有田皿山代官石橋三右衛門へ公文が届いた。それには「文政の大火後、有田焼には粗悪品があって、オランダ商人からとかくの批判が起こっている。十分気を付けてほしい」とあった。

 早速、代官は赤絵屋と窯焼達を集めた。外から苦情が持ち込まれるようでは鍋島藩の不名誉である。特に赤絵付けは最後の仕上だけに技術的な批判は赤絵屋の責任であると、警告した。ところが、この事件がきっかけになって問題は意外な方向に発展した。赤絵屋制度のあり方ををめぐって窯焼側から改革論が出され、皿山は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 長崎奉行の批判をもっともだとする泉山の深海平左衛門、鶴田次兵衛、本寺平の深川栄左衛門達は「藩の厚い保護を受ける一子相伝の赤絵屋は身分と生活を保障されているため、技術の研究を怠っている。このままでは有田焼の名声を汚し、伝統ある赤絵は滅んでしまう。よって赤絵屋制度を再検討すべし」と皿山代官に分業廃止、窯焼との合併を主張した。

 驚いたのは赤絵屋達で、今泉今右衛門(九代)等十六人は死活問題だと近くの桂雲寺に集まって、富村森三郎を代表に選び改革派と交渉した。「長崎奉行の警告は赤絵屋だけの責任ではない。言い掛かりをつけて赤絵屋の秘法を公開させようとしているのは越権行為だ」と言って反論した。

 改革派も負けてはいなかった。「技術の優秀な細工人や染付絵書きは藩に登用されるが、これは一代限りだ。赤絵屋は武士と同様な世襲に甘えている。我々に赤絵付をさせたらもっと立派な赤絵を焼く自信がある。外国から見放されたら有田焼はどうなるか」とやり返したのである。

 形勢不利とみた赤絵屋達は富村森三郎の義兄の北島橘次郎をして、皿山代官を派遣している多久邑主鍋島茂族へ左の通り直訴させたのである。「本藩の名代札によって二百年近くも色鍋島をはじめ赤絵付の秘法を守って来たのに、一部の異分子が御政道を批判し、赤絵屋制度を潰そうと計画している。」と。
 この直訴によって皿山代官は茂族に呼び付けられ、報告を求められた。代官は自分の政治力を問われるとして、多久から帰ると直ちに「お上への政治批判はもってのほか」と、改革派の深海、鶴田、深川等を厳しく叱って沈黙させたので、赤絵屋制度は藩のこの圧力によって何とか命をとりとめたのである。

 だが、これも束の間のことだった。七年後に明治となり、この日を待っていたかのように窯焼達は、明治四年(一八七一)深川等を代表として「天下は既に変わった。赤絵付の秘法を公開せよ」と赤絵屋に迫った。今右衛門等は「簡単に秘法公開はすべきでなく、細工人、窯焚きの分業があってこそ立派な焼物が出来る」と申し出を跳ね付け、又も桂雲寺に立て篭って窯焼との交渉には一切応じようとはしなかった。

 これに憤激した窯焼約百人は「独占赤絵屋制度を廃せ。焼物は赤絵屋だけが作るものではない」と叫んで、竹槍や鎌などを持って桂雲寺を取り巻いた。代官は既に郡令に名も変わり旧幕時代のような権力はなかった。 だが、見過ごすことは出来ないので、百武郡令は仲裁に乗り出したのである。この仲裁によって窯焼も赤絵付けをする。赤絵屋も窯焼になれるということでやっと双方を納得させたという。

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