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第六章 幕末から廃藩置県までの有田
(四)伊万里商社とワグネルのこと
 明治二年(一八六九)版籍奉還が実施され、藩主は藩知事に任じられた。そして、皿山代官は皿山郡令となって百武作十がそのまま任命された。この最後の代官は名代官と住民から敬慕された成松信久の実子である。

 翌三年、郡令は伊万里商人の買叩きを防いで窯焼の自立を助成し、製品の品質低下を防止するため、販売制度の改革を目的として有田と伊万里に伊万里商社を、横浜、江戸、長崎には夫々の地名を冠した支店を設立した。翌年、廃藩置県によってその機能を失い業を閉じるまで一年余に過ぎなかったが、商勢は極めて活溌だったのに、かくも短命であった。だが、これは江戸から明治に移行する過程での藩による肥前陶磁器の保護政策であり、又、経済統制でもあった。その意味では、昭和十五年から敗戦まで五ケ年間の国による戦時統制とも比較される歴史的な事だった。
 その大要は左の通りである。

 一、事前工作、即ち受入体制の確立

 明治二年、鍋島閑叟の内命を受けた郡令は、川原善八と百田多兵衛を従えて上阪、この両名とたまたま大阪に滞在していた手塚亀之助等の協力を得て、これまで紀州藩御用商人を経由して販売していた旧幕時代の慣習を廃して藩による直売を断行した。そして、蔵元主任には鴻池庄十郎を命じ、大阪に二十、京都に十二の仲買問屋を指定した。

 二、期間 自明治三年四月 至四年七月

 三、理由と目的

 維新の変革によって、藩内の諸制度が改革された結果、第一には藩による専売という保護政策が崩壊したため、資力の乏しい中以下の窯焼達は忽ち資金難に陥り、伊万里商人から資金の融通を仰がなければならなくなった事。第二には関所が廃止されたため、伊万里商人はもとより、有田の商人達は諸国に行商する自由を得たので、過当競争が激化したこと。そのため資力のある伊万里商人の買い叩きになって製品の粗悪化と窯焼の窮乏化の傾向を促進するに至った。そこで、この傾向を防止する目的を以て藩が郡令に命じたのである。

 四、措置

 伊万里商人による買い叩きを防止するため、一手仕入販売の流通商社機構を設立する。資金は皿山内外窯焼の出資による四千両と、藩からの貸付金一万両との合計一万四千両とする。
窯焼は仕入部の指図によって製造し、その製品はすべて商社倉庫に搬入する。これを評価員が格付け評価して金額を査定する。商社は査定金額の八十%を窯焼に支払う。

 五、組織

 製品の出入庫は一名の支配人が掌理し、これを若干名の元締役が補佐する。仕入部を中野原久富惣兵衛宅に置き、仕入役が窯焼に対し製造指図をする。出荷部は伊万里の有田町に本部を設け、中町と浜町とに支部を置く。浜町では専ら外山製品を取り扱う。江戸、横浜、長崎に夫々商社、即ち支店を設置した。阪神に商社を置かなかったのは、既に蔵元の下に指定問屋制が確立していたからである。

 六、役員

監督 百武作十兼貞 郡令
(後世の社長と同様な役と思われる)

評価員 川原善八 大樽
評価員 深川栄左衛門 本寺平
評価員 久富惣兵衛 中野原
評価員 金ケ江利平 中野原
支配人 平林伊平 大樽
元締役 柳瀬平左衛門 大樽
元締役 手塚亀之助 大樽
元締役 針尾徳太郎 中野原
仕入役 藤井喜代作 大樽
仕入執務者 諸岡新太郎 泉山
伊万里本部 角源平 岩谷川内
伊万里中町 久富太八 中野原
伊万里中町 毛利常吉 中野原
伊万里浜町 柳瀬平左衛門 兼任
江戸商社主任 犬塚儀十 中野原
横浜商社主任 川原忠次郎 大樽
長崎商社主任 手塚五平 白川
 七、伊万里商人への対策

 当初伊万里商人にも商社から販売することで、彼等の既得権を認める方針を以て参加と出資を呼び掛けた。だが、彼等四十数名は結束してこの措置に反対して応じなかったので、郡令はその既得権を取り上げた。ために、営業不振に陥り一大恐慌を来たしたのであった。

 八、消滅

 明治四年八月、廃藩によって百武郡令は解任されたため、忽ちにして消滅した。

 九、結語

 佐賀藩が国とは異なるけれども、有田陶業の流通を組織統制することによって、変革による業界の混乱を防ぐと共に商業者の恣意(自分の思うまま)を規制して工業者の利益を計ったこと。又、当時有田の指導的立場にあった少数の有識実力者による格付け評価にて価格の公正を期したことなど高く評価されるべきであろう。同時に、当時の鍋島閑叟、百武作十や有田有志者達の先見性がうかがわれると思うのである。

 明治二年の暮れ、グラバー商会の鉱山技師英人モリスに磁石砿を調査して貰うため、当時長崎の久富与平家に寄寓していた石丸虎五郎が本藩の久米邦武と共にモリスを伴って有田に来た。
そして、モリス歓迎の席上、百武郡令も交えて深川栄左衛門、深海墨之助と竹治兄弟、辻勝蔵等と製陶のことを話した時、英国で数年理化学を学んで来た石丸は、これら有田の製陶家等が理化学の初歩すら知らないのに驚くと同時に将来に不安を感じた。

 彼は長崎に帰ると、与平にこの事を話して、たまたま今長崎に居るドイツの化学者ゴットフリート・ワグネルというのが、有田を見たいと言っているから、どうだろうかと相談した。与平が早速深海平左衛門へ連絡した結果、郡令の周旋で藩が雇用する事になり、明治三年春、ワグネルは有田に来た。そして、白川の御山方会所を宿として技術指導に当たった。

先に平左衛門は本窯で棕櫚色を発色させる技法を発明していたが、ワグネルはそれを学理的に説明した上、更に赤、黄、青を本窯で発色させる技術を伝授した。又、金の分解遊離などにも成功している。

 そして、呉須に代わるものとして値段の安いコバルトに稀釈料として小樽山の地土四割を混ぜて完全に青化発色する事を教えた。又、白川稲荷神社の下の辺りに小型の二間続きの石炭窯を築造して試焼を続けたが、遂に成功しなかった。その内に藩との雇用契約が切れたので、ワグネルは職を求めて横浜へ去ったのである。その後も百武郡令は再び呼び戻そうと努力した。だが、藩は消滅したので、徒労に終ってしまった。その後ワグネルは、明治二十三年頃、白川で築いた平面式の窯でなく、立体的なもので石炭窯を他の地で成功させている。
 石丸と同行して来た久米邦武は、その時平左衛門が極真焼きで焼き上げた六尺の大花瓶に驚嘆しているが、後日回顧録でこう述べている。「有田の陶工が斯く大胆で精巧な技術を具有するも是は只経験熟練の結果で、理化学の知識は零点で磁質に泡をなす空気さえ知らなかった」と。この一文からしても有田陶業の化学化にワグネルが如何に貢献したか分かると思うものである。

 明治六年のウィーン万国博覧会にワグネルも参加して、有田から参加した川原忠次郎に石膏型の製法と用法などの技術習得に種々便宜を計ってくれている。

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