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第七章 明治前半の有田
(一)久富与平のこと
 幕末維新激動の時代に於て、有田を代表する日本的人物は久富与平と言える。江戸時代豪気で先見性のある商人は、前期では朱印船貿易で名を挙げた長崎の浜田弥兵衛であり、中期では紀伊の材木商紀国文左衛門、後期では加賀の回船問屋の銭屋五兵衛である。そして末期では三菱の創業者岩崎弥太郎さえ兄事したという吾が久富与平であろう。

 与平は若くして有田を離れて長崎に住み、明治二年には長崎を出て海運業に専念している。有田焼の輸出という直接的な関連の他に、グラバーとの密接な交友やワグネルの有田行きの周旋など間接的に有田と関わりは持っているものの、前述したように幕末時有田焼貿易の実態が茫漠としているので、彼と有田陶業との具体的な関係は分からない。従って有田町史でも与平に関する記述は乏しい。よって彼の同族である久富二六氏著「わが家の歴史」から彼の軌跡を追ってみる。
 久富与平昌起は字を子藻、号を西畝、通称は与八郎である。久富与次兵衛昌常の六男である。だが、長兄の昌保に子が無かったので、その養子となって久富宗家を継いでいる。

 彼は年少の頃から闊達な性格で才知も衆に優れていた。いつも洋銃を肩にして西の岳に狩猟に行き、時には下僕を運れて山中に篭ることもあった。青年になると長崎に出て大村町の蔵春亭支店を支配して貿易の第一線に立った。屋号の蔵春亭は久富家が鍋島閑叟から拝受したものである。

 この支店は佐賀藩が事務所として利用していたので、藩の留学生として長崎に来て蘭学や外国事情の研究をしていた副島種臣、江藤新平、大隈重信等がいつも出入りしていた。与平三十才の時、即ち文久元年(一八六八)には副島が三十四才、江藤二十八才、大隈二十四才である。

 与平は小城藩十代の藩主鍋島直亮から特に寵愛されて与八郎の名を通称として与えられ家臣同様の扱いを受けた。そこで与平は藩公に勧めて大木丸という二百屯の汽船を購入させている。長崎で外人と通商すると共に、鍋島領の長崎港外高島で英人グラバーと謀って石炭の採掘を始めた。この事業には長崎の富豪永見家も応援した。

 慶応元年(一八六五)頃、閑叟の密命によって藩士石丸虎五郎と馬渡八郎の両名をグラバーの帆船に乗せて英国へ密かに留学させている。二年後帰国して与平の家に寄寓していた石丸の提案によって独人ワグネルを有田へ行かせたのも与平である。

 又、その間高島の石炭を大木丸に積み込み上海その他と交易したことは史料に残っている。
閑叟や小城藩主の知遇を受け、しかも長崎の藩事務所として自分の店まで提供した上グラバーとは親しくしていた彼が、有田焼の隠密な貿易と藩の武器輸入に大きな役割を果したことは十分想像出来るのである。

 慶応元年頃には、与平の青年時代の学問の師であった谷口藍田が長崎に来て塾を開設して、アメリカ人のフルベッキーなどに和漢の学と日本語などを教授した。その傍ら高島炭鉱の経営等で与平の相談にも与かっている。又、与平は業の傍ら藍田に教えを請うたのであろう。

 彼が初めて藍田に師事したのは、与平十八才の頃嘉永三年(一八五○)江戸の遊学から帰郷した藍田が有田で塾を開いた時である。後で彼の妻になるみんの実兄である大樽古酒場の川原善八と謙兄弟も共に藍田塾に入門している。

善八は彼より三才、謙(後横尾姓)は四才年下だった。

 明治二年、与平は大木丸に藩士内山辰助と同船、長崎から既に首都となり江戸から改称した東京へ向かっている。この地で旧知の江藤新平等とも再会したに違いない。というのは、新政府の要職についていた江藤は与平を東京府知事にとしきりに勧めているからである。だが、彼はそれを固辞し、蝦夷地の名から改称したばかりの北海道へ向けて海運と貿易の業を開始している。

 そして、明治三年の晩秋、与平等を乗せた大木丸は千島で台風にあって難破し氷の海を漂流したのである。寒気の厳しい海上にあること半年余、与平は船中で病に倒れて明治四年六月、釧路厚岸海岸の洋上で死去した。
与平四十才の時である。死に臨んで与平は「自分が死んだら死体は海中に投じてくれ」と供の者に命じた。供の者はそんなことはとてもと逡巡すると、彼は笑いながら「自分はこの航海で巨方の利益を得て五大州を廻るつもりだったのに、不幸にして病気に倒れたが、これも天命である。死後は長鯨に跨がって必ず初志を貫徹する」と言い息絶えたという。

 昭和七年、与平の甥久富季九郎氏は私財を投じて、その墓碑長鯨の碑を報恩寺境内に建立した。台石は長鯨を形どり、碑文は師の谷口藍田の撰になる。題字は旧小城藩主鍋島直庸の書である。

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