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第七章 明治前半の有田
(二)教育家としての谷口藍田
 久富与平という非凡な人物は生まれながらの資質に恵まれていたにせよ、その人間形成に最も影響を与えたのは、彼が生涯の師として学んだ谷口藍田に他ならない。前節で述べた通り与平を追悼する長鯨の碑の碑文もこの藍田の撰による。又、明治初期深川八代の栄左衛門等と並んで有田皿山の最高指導者であった川原善八、その実弟にして明治後期、有田町長に任ぜられた横尾謙とは藍田の有田に於ける最高弟である。

 この十月三十日には隣の山内町の人浦川晟氏が「儒者谷口藍田」という書を刊行しておられるので、この書に基づいて藍田の教育家としての生涯を回顧することにする。

 藍田は文政五年(一八二二)八月十五日、陶山神社祭礼の日に有田郷外尾で生まれた。
彼の祖父に当たる三宅省蔭が寛政十二年(一八○○)医者として外尾に来住している。その次男寛平は叔父の佐賀藩士谷口家へ養子になり、皿山代官所に勤務することになったので、居を白川に移している。寛平の通称は源兵衛で陶渓と号した。そして、皿山会所の事務長である主薄の役にまで昇進している。号の陶渓は陶の里の谷川、即ち白川の意である。

 藍田はその長男で通称は秋之助、字は大明である。有田の発音が「あいた」であることから、訓音が同じの藍田を号としたのである。又、祖先が朝鮮の役の時鍋島直茂に連行されて来た帰化韓人で韓を姓にしていたので、韓中秋とも称している。幼時は父母から教育された。だが、五才の時に孝経を読み、八才にして詩を作っている。十才の時には四書五経を読みこなして神童と称されていた。

十二才からは母の弟である叔父の儒医清水龍門が住吉村大野に開設していた塾に通っている。十八才の時英彦山の五蔵坊に学び、その後豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に学んで塾頭にまでなっている。

 二十一才で江戸に出て羽倉簡堂のもとで学んだ。古賀伺庵、佐藤一斉、佐久間象山や伊東玄朴、鈴木春山などとも交友があったので、儒学や漢学ばかりでなく洋学も学んで内外の学問を身に付けている。

 嘉永四年(一八五一)二十八才の時、郷里の有田に帰って白川に塾を開いた。だが、塾に来る者が多くなったので、上幸平の皿山会所の中に移った。現在の篠英陶器店の車庫の辺りである。更に隣村の宮野村に塾を移している。彼が日頃愛した黒髪山にちなんで、髟眞山書院と称した。髟眞は黒髪の意だからである。
塾生は武士もいたが、町人や農民も多数いた。有田には天保九年(一八三八)に草場佩川の教導所も設けられたが、私塾として本格的なのはこの書院が最初である。

 その後、髟眞山書院は失火により焼失したので、藍田は宮野村を去っている。五島や天草などを遊歴して慶応元年(一八六五)京都の大徳寺でアメリカ人フルベッキーと会見し、その依頼で彼に和漢の学と日本語を教え、西洋の事情や学術についてフルベッキーから多くの事を学んでいる。又、これより先、藍田は長崎滞在中、門人の久富与平や森主一等と共に高島炭鉱開発に参画した。

 慶応四年に子の復四郎と共に鹿島藩主鍋島直彬に会ったことが縁となって、明治二年には鹿島藩に迎えられて弘文館教授となり、あわせて権大参事として鹿島藩政に参画した。

明治四年(一八七一)の廃藩後の翌年には長崎の瓊林舘の館長に迎えられている。明治八年には、鹿島からの強い要請によって再び鹿島に移って、鹿島義塾を開設し多くの子弟の教育に当たっている。

 明治十七年、子の復四郎が東京で死去したので、その整理のため上京し、その後は各地を遊歴して請われるとその地で講義をしている。同二十六年、熊本の師団長だった北白川宮能久親王に招聘されて熊本へ行き殿下に進講したが、宮が東京に転勤するとこれに従って北白川宮邸に入り、邸内に学問所を設け宮家一族の教育に従事した。明治二十八年(一八九五)能久親王が台湾で薨去されたので、翌年二月、宮邸を辞去して藍田書院を開き和漢学や道徳などを講義した。だが、明治三十四年十一月、脳溢血で倒れて逝去した。享年八十才であった。
 彼は戊辰戦争が起こると王事に尽くすべしと志して、大隈重信や副島種臣等と京へ行き江戸を目指したが、途中病にかかり空しく帰郷している。この一事以外専ら彼はその生涯を地域住民や子弟の教育に捧げている。これが彼をして我が有田が生んだ偉大なる教育家とする理由である。

 藍田は明治八年、鹿島に移住してから上京するまでの十七・八年の間、時々有田に帰郷して門下達と久し振りに会っている。年月は不明だが、たまたま鹿島から帰った藍田を高弟の川原善八が出来たばかりの大樽の料亭に招待した。その料亭は善八が因縁の深い田中庄右衛門というのに経営させて未だ屋号も決まっていなかったので、善八は師の藍田に命名を頼んだ。藍田は二階から故郷の町を眺めながら、松煙亭ではどうか。有田は松の煙を盛んに出すことで栄えてゆく。

それに松煙の音は主の庄右衛門の呼び名の「しょうえん」にも通ずるではないかと言ったという。

 昭和十五年の頃、多久で私塾を開いていた田口裕次という東大出の人と会った。その時彼は自分の生地の塩田五丁田と有田とは深い因縁がある。
というのは明治の初め塩田や鹿島の人々を教化してくれたのは有田の谷口藍田であり、自分達の先祖は皆その徳を幕っていたと感慨深げに語ったのである。

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