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第七章 明治前半の有田
(三)万国博覧会と有田焼
 著名な経済史学者奈良本辰也はその著「近代陶磁器業の成立」で左の通り記述している。「明治維新の変革は我国陶磁器業の上にかかっていた一切の封建的制約を解いたぱかりか更に国外の市場への積極的な輸出を奨励するに至ったのである。

 そこでかかるものとしての陶磁器生産の海外市場との連絡を考える時何よりも先づ明治六年の墺国博覧会を挙げなければならない。勿論これ以前にあっても各産地に於ては夫々神戸や横浜の外国商館よりする注文が引受けられていたことはいうまでもないが、我国の陶磁器の特色がそれを以て不動の地位を確立するに至ったのは明らかにこの墺国博覧会に於てであった。

 明治元年から明治七年に至る陶磁器の輸出統計は墺国博覧会の意義を数字に於ても充分に説明されている。
明治六年に於ける一躍二倍半強の増加(明治五年四万五千円、六年十一万六千円)は、この博覧会に随行員として渡った東京起立工商社の松尾儀助の報告にも見らるる如く『大いに声価を会場に得て欧州人の之を望む者日に多くして我社莫大の注文を受けたり』という状態がもたらした結果の他ではなかったのである。」

 このウィーン万博の恩恵を最も多く受けたのは我が有田焼であったといっても過言ではない。博覧会の総裁は時の工部卿(現在の通産大臣)大隈重信であり、現地での主宰者である全権公使兼副総裁は先年のパリ万博で佐賀藩の団長だった工部大丞(現在の通産次官)佐野常民であった。

 それに販売担当者は前記の松尾儀助である。

彼は先年のパリ万博で佐賀藩の販売担当者で彼の地で客死した野中元右衛門の子飼いの者で、大隈の信任が厚かった政商である。更に一行の中にはワグネルがいた。有田からは伊万里商社の横浜主任だった川原忠次郎が小城の納富介次郎と京都の丹山陸郎と共に陶芸研究員として参加している。この顔触れからしても有田焼にとってどんなに有利であったかということが分かるのである。

 有田焼の出品についてはその前年、田代慶右衛門と平林伊平が御用違に任ぜられて上京し博覧会事務局から詳細説明を受けている。この二人が選ばれたのは、田代は既に幕末から、平林はこの年から横浜に支店を開設している関係からと思われる。

 そして、製作監督として事務局出仕の納富介次郎が有田に出張して来ている。
こうして明治五年の有田内外皿山は博覧会出品物の製造に忙殺されて、その年の暮れから新春にかけて荷になり続々と横浜へ送られた。

 佐野以下一行七十余名は出品物を搭載した英船マラッカ号に便乗して横浜を出発したのは明治六年二月二十五日だった。そして、四月十四日オーストリアの首都ウィーンに到着した。博覧会は五月一日に始まって十一月末に盛況裡に開会した。

 名誉の大賞を授与された有田焼は非常に好評で、特に欧州人の目を驚かせたのは大物類であった。白川の家永熊吉製の六尺余(二メートル)の大花瓶と五尺(一・七メートル)の立壷、岩谷川内の山口虎三郎製の五尺の大花瓶、黒牟田山の梶原友太郎製の三尺の火皿などである。

 又、深川栄左衛門が出品した薄手の三河内素地に六歌仙を赤絵付した紅茶碗が飛ぶように売れた。三河内素地を使ったとして田代屋や赤絵屋達が藩法によって厳しく罰せられた七年前の事件を思えば隔世の感である。

 博覧会閉会後、川原忠次郎は納富や丹山等と共に欧州陶磁器の製造技術の伝習を命じられた。彼等はワグネルの協力を得て一ケ月間このことに費やしている。

 川原等が先ず驚いたのは、機械ろくろの素晴らしい性能であり、それに石膏型による流し込みの成形法であった。次に匣鉢の合理的な形状と積み方である。有田では一個づつ蓋をしたり或は冠せ積みをしていたが、ここでは積み重ねである。従って窯の空間を少なくした上、製品の汚染を防止しているのにはひどく感銘した。
その他上絵付の油のばしの方法などいろんな新技術を習得して、川原と納富は共に翌七年二月帰朝した。

 ちなみに、京都の丹山陸郎も初めて水金を携えて同じ頃帰国している。そして、川原はこれらの新技術を以て窯焼や赤絵屋を実地で指導したのである。

 明治前期でのその後の万国博覧会は左の通りである。

 明治九年(一八七六)フィラデルフィア

 この万博はその前年日本で最初の合本組織の会社として発足した香蘭社に所属する深川、深海、辻の工場が総力を挙げて自費で参加出品している。

同社の手塚亀之助、深海墨之助、深川卯三郎(八代の女婿)が渡米して米国市場への本格的進出のスタートを切った。その時米国に於ける受入れを目的とする松尾儀助の起立工商社ニューヨーク支店が開設された。ここでも名誉大賞を授与されて、一行は翌十年帰国した。深川は米国から大量のコバルトを購入して帰ったので、呉須からの転換が一般化するのである。この万博への日本の参加は有田の陶業者の政府に対する熱心な運動によって実現したが、これからは政府買上げでなく業者の自費出品になったのである。

 明治十一年(一八七八)パリ

 香蘭社社長深川栄左衛門が渡航し、一等金牌を獲得している。深川は閉会後欧州の製陶地を視察、製陶機械を購入して帰った。
だか、その直後会社が分裂したため、機械の活用は出来なく、それから数年後に合名会社香蘭社で使用されている。

 明治十六年(一八八三)アムステルダム

 主に精磁会社が出品して同社から川原忠次郎が参加した。当時ヨーロッパは深刻な不況下にあったため、博覧会の成績は極めて悪く予想外だった。だが、一等金牌は獲得できた。閉会後、川原はフランスのリモージュを訪れて当時の世界で最も進んでいた窯業機械一式を契約している。

 これら数回の万博への参加によって、欧米市場を確保すると共に進んだ技術と機械とを導入することが出来て有田陶業の近代化を促進したことは実に劃期的なことであったといえよう。

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