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第七章 明治前半の有田
(四)香蘭社と精磁会社
 岩倉具視を全権大使とする遣米欧使節団の一人である久米邦武は明治七年の春有田を訪れて、明後年はアメリカ独立百年目を記念してフィラデルフィアで万国博覧会が盛大に開催されるから、有田も是非参加するように勧めたので、有田を代表して深川栄左衛門と手塚亀之助が博覧会出品手続きのため上京した。

 久米の紹介で両名は内務省勧業寮に出頭した処、その頃政府では西郷従道を総督とする征台の議が決してその準備に忙殺されているから、博覧会などに関わり合ってはおられぬと断わられた。そこで政府に対し速やかに米国博覧会に参加するよう決しられよと建白して帰有したのである。
 その後急に情勢が変化して征台が中止になったためか、或は有田の建白も与かって力になったのか、従前のような政府買上げはしないが、自費出品であれば斡旋の労を執ると勧業寮の方針が変わった。そこで有田では深川、深海、辻は自家製品を、手塚は仕入商品を自費で出品参加することに決まった。

 その間、この四者は久米からいろいろ啓発されることが多かった。特に最近欧米の産業が急速に発達した原動力はカンパニア、即ち会社組織である。毛利元就の故事にある、一本の矢は折れるが三本に束ねると折れないという原理だと説かれて一様に目の覚める思いがした。そして、生まれたのが合本組織香蘭社である。

 この商号と蘭の銘については藍田の高弟で、皿山一の知識人である川原善八が彼等の請いによって名付けたのである。即ち、君子の交わりはその香蘭の室の如しという中国の古典から取って香蘭とすれば、西洋では白磁をカオランというから磁器の会社であることが明らかである。又、蘭の花を丸く描けば雅味のある銘になる。そこで蘭の香りという社名は有田を代表する結社の名として最もふさわしいと川原は説明している。

 二月末には正式に設立認可方を県に申請した。だが、佐賀県としては何分初めてのことなので、県令は時の内務卿大久保利通へ裁断を仰いだのである。日頃結社営業を勧奨していた大久保は我が意を得たりと即座に許可した。明治八年四月のことである。
 君子の交わりを結んだのは、深川栄左衛門、手塚亀之助、深海墨之助と竹治の兄弟、辻勝蔵の五名である。支配人(現在の社長)に深川、勘定方(現在の専務)に手塚、社員(現在の取締役)に深海兄弟と辻が任じている。

 深川栄左衛門は旧藩時代には窯焼の傍ら釉薬の原料である柞灰の藩による専売権を川原と共有して財を成し、明治元年には貿易鑑札を取得している。明治三年には電信寮頭になった旧知の石丸安世(前名虎五郎)の依頼で本邦最初の電信用碍子を製造すると共に白川窯登支配になっている。正に有田第一の実力者だった。

 手塚亀之助は大樽の陶器商で主として京阪地方を市場とし、明治二年には百武郡令に協力して藩の大阪蔵元制度を改革している。

伊万里商社でも元締役を務めた有力者である。

 辻勝蔵は深川の妻の弟で二代喜右衛門以来禁裏御用達の名門でその曾祖父八代喜平次は極真焼で有田焼の声価を高めている。

 深海墨之助、竹治は宗伝嫡流の平左衛門の子で、ワグネルに師事して父以来の悲願である本窯で色絵を発色させることに成功した。弟の竹治は当時最も優れた技術者であって、明治十三年には理想的な匣鉢製作に成功し、十四年には従来の柞灰釉に代わる石灰釉を完成している。

 会社としての最初の挑戦だったフィラデルフィア万博は、その製品がフランスのセーブルその他各国の製品を完全に圧倒して対米輸出の道が開かれたのである。そして、深海製と辻製とが金牌賞状を獲得した。
閉会後、手塚等は起立工商社々長松尾儀助と話し合った結果、松尾はニューヨークに支店を開設して香蘭社製品の対米一手販売に当たることになった。これより先、当時大隈がその長だった大蔵省から四十万円という巨額の資金を拝借していたのである。

 同じ会社であっても深海製や辻製とかになっているのは、完全合併でなく、工場は夫々で運営し、製品には一様に蘭花の銘を入れるが、その下に夫々の姓を記すことになっていた。そして、販売は全て会社を経由する。だが、その代わりに焼成上の損失は会社が負担するという仕組みになっていたのである。

香蘭社の一行三名は一年ぶりに十年四月、有田に帰った。その前々月、大久保内務卿から香蘭社へ「名誉の章」という賞状が贈られている。これには深川以下五名の社員の氏名が列記されて「右名工ヲ証シテ之ヲ授与ス」とある。

製磁の職人的な技能よりも管理者的な深川や全くの商人である手塚までを含めて一律に名工と称したことで当時の時代感覚が窺われるようである。

 創立四年目にして遂に合本組織香蘭社は分裂したのである。明治十一年のパリ万博には社を挙げて参加した。碍子を新しく出品することになったので、社長格の深川が渡航している。その不在中資金繰りに追われて、政府から五千円という大金を輸出向け製品の試売前金の名目で下附された。その時内務省勧商局は完全合併することによって、会社の性格を明確にすべしと勧告した。

 これは手塚等の持論でもあったので、製造工場を集中するという完全合併の社則原案を作成して政府要路の了解も取りつけ、深川の帰朝を待ったのである。
だが、明治十二年一月に帰朝した深川は、完全合併は時期尚早であり、藩政時代から根付いている米穀拝借的な他力依存の考え方は不可であるとの彼の信念から政府要路の強要も有田有志等の調整をも斥け自説を枉げなかった。

 こうして香蘭社は深川の一手経営になり、他の四人は離脱して別に精磁会社を設立する。この会社には久米等の懇請によって当時東京で江戸川製陶所の経営に参画していた川原忠次郎が新たに参加することになった。そして、久米、松尾それに泉山の素封家百田恒右衛門が差金社員(現在の株主)として協力することになり、辻の工場に深海の工場を移して完全合併の会社として発足したのである。明治十二年二月のことである。

 そして、起立工商社とは改めて約定を取り交し、対米輸出品の製造に専念することになった。又、アメリカボストンの陶磁器輸入業者フレンチを有田に招聘して直接指導を受けた。明治十六年アムステルダム万博に川原忠次郎が参加し、閉会後、フレンチの勧告に従いフランスのリモージュに廻って、最新鋭の製陶機械一式の購入契約を結んで帰国した。

 当時欧米は深刻な不況のため、万博の成績は芳しくなく精磁会社の経営は容易でなかった。そこで契約はしたものの機械を購入する資金は無いので、政府からその代価八千円を無利息七年々賦で借り入れたのである。

 辻の工場に隣接する三千坪の地に新工場を建設して、明治二十年七月一日、落成式を迎えた。
日本で最初の最新鋭を誇る製陶工場ということで農商務省技師、佐賀県知事初め全国各地の陶磁器関係の官民多数が出席した。ということは、この工場こそ当時陶業近代化のシンボルであったからである。

 しかし、その前年には深海墨之助、翌年には川原忠次郎が相次いで病死した。そして、二年後には辻勝蔵が離脱するなどして、この栄光も長くは続かなかった。反面深川の一手経営になった香蘭社はその後合名会社に改組されて今日に至っている。百年余を経過した今にして、八代深川栄左衛門の非凡なる先見性を認識せざるを得ない思いがするのである。

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