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第八章 明治中期の有田
(一)窯焼工業合成立の前後
 窯焼工業会は、明治十九年(一八八六)陶磁器工業組合の先駆的な組織として設立された。正しく言えば有田窯焼磁業会が組織を拡大、改称したものである。そして、その発祥は明治六年の陶業盟約に遡るのである。

 廃藩置県後の新しい時代に有田の陶業を対応させるため、当時の有志百田多兵衛、川原善八、深川栄左衛門、深海墨之助、手塚亀之助、平林伊平に有田小学校長江越礼太等が協議して町是として、二部から成る陶業盟約を制定した。そして、これは工商会議を開いて陶業の改良発達を目的としているものである。

 明治九年三月、陶業盟約定則を改めて範囲を有田内外山とし、十七名の内外山惣代が連署して佐賀県令北島秀朝に届け出ている。
 その時の窯焼数は二百七名で山列は左の通りである。

 泉山 二十四
 上幸平 二十四
 中樽 十七
 大樽 二十二
 本幸平 九
 白川 九
 稗古場 十四
 赤絵町 一
 中野原 ○
 岩谷川内 九
 内山合計 百二十九

 外尾山 九
 黒牟田山 十二
 応法山 十
 南川原山 四

 広瀬山 十六
 大川内山 十二
 一ノ瀬山 十五
 外山合計 七十八

 この窯焼等が利用した登窯は二十一あった。内山は十二で一窯平均十・七五人であり、外山は九で一窯平均八・六七人である。登窯には各一名の登支配がいて管理に当たった。

 石場には頭取一名の下に肝煎十三名がいた。定則上の部十八ケ条は石場に関する諸規定で、下の部十一ケ条は登窯に関する諸規定である。

 そして、明治十一年、郡区の改正によって惣代が廃止されたので、陶業盟約の執行者として新たに町用係という職を置いて本幸平の田代呈一が任ぜられた。その手当は有田皿山が負担した。
だが、十四年に自治制が実施されたので、陶業盟約中の行政に間する条項は町村に移り陶業に関することだけに縮小された。

 そこで盟約加盟の窯焼を以て有田窯焼磁業会が結成され、会長には田代が任ぜられたのである。

 当時の陶業界は、明治十三年までは好景気が続いた。だが、十四年から不景気に逆転して職工の賃金も平均二十五%も切り下げられた。このように経営難に陥った窯焼は製造工程を省くため、素焼を止めて生積みの方法をとったので、品質の低下は免れなかった。この傾向を防止するため、磁業会は規則によって特殊品以外の生積みを一切禁止したのである。

 そして、明治十九年に磁業会を改組したのが窯焼工業会である。引き続き田代呈一が会長になって粗製乱造を取り締まった。

同時に黒牟田山に支会を設けた。又、内外山の赤絵屋から議員を選出して加入させた。但し、赤絵屋との協同は職工雇入などに限定された。この時会長の田代は四十才の熟年であった。

 事務所は勉脩学舎内に置かれた。勉脩学舎は、明治十四年(一八八一)有田小学校長江越礼太が多年の素志を貫徹したもので、深川栄左衛門の千円を始めとし内外山有志の寄付金一万三千五百余円を以て白川の小学校の下場に一大校舎として新築された。その名称は有栖川宮より賜った大額の御親筆による。我が国陶業界に於ける実業教育の濫觴(ものの始まり)であって現在の有田工業高校の前身である。

 廃藩によって藩の統制が解かれたので、新しい窯焼や赤絵屋が続出した。
又、窯焼で資力の有る者は共同窯から離脱して自分の工場の中に登窯を築く傾向が生じてきた。

 明治六年には平林伊平が製作した碍子が電信寮の試験に合格して明治十三年まで香蘭社と並んでその製造に当たった。彼は明治四年、散髪脱刀令が発令されると直ちに髷を切り落として洋食器製造の研究に掛かっている。その翌年には横浜に支店を開設したという程の有田に於ける文明開化の先駆者だった。

 明治十三年には佐賀の山口弘助が白川で金粉販売業を始めた。これが有田金屋の元祖でその後大樽、本幸平、赤絵町に金屋が生まれている。

 明治十七年、黒牟田山の窯焼梶原幸七が一軒窯を築造して初めて石炭を試用している。

 明治十九年、大樽の牟田久次は紙型印画法を銅版転写に発展させて染付銅版を普及させている。明治二十年頃には深刻な不況を切り抜けるため、窯焼同士又は、赤絵屋同士で社や組と称する企業合同が流行した。だが、これは長くは続かなかった。昭和までその名称が残っていたのは、大樽の岩尾と藤井との合同による岩井組や岩谷川内の雪竹を中心とした改幸組などに過ぎない。  明治二十一年、ワグネルの窯業機械化の所説に共鳴した田代呈一は泉山の徳見知敬と共に稗古場に有田起産会社という製土工場を創立し、クラッシャーを据え付けて磁石の粉砕から粘土搾成までの業を始めている。

 その頃平林と田代とを相手にした山林事件が起こっている。というのは、明治二十年頃平林が燃料の薪材の払い下げを受け、田代がその管理をしていた。だが、両人は結託して不正をしていると一部町民と赤絵屋が訴訟を起こした紛議である。

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