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第八章 明治中期の有田
(二)県都の変遷と町村制の施行
 明治四年七月の廃藩後、各藩の区域はそのままで名称が県に変わったに過ぎなかった。だが、その年の十一月にはそれが一つに統合されて伊万里県になり、県庁も伊万里に置かれた。最初の権県令(後の知事)は後で明治天皇の侍従になる旧幕臣の山岡鉄舟である。僅か半年目の五年五月には旧多久領主の多久茂族に代わった。

 多久は伊万里県を佐賀県に改めて県庁を佐賀に移したのである。だが、これも四年目の明治九年五月には長崎県に編入されている。そして、東西松浦が含まれていた第五大区は第三十六大区に名称が変わったが、その中の有田郷全体の十二小区はそのままであった。

 郡区町村制が実施される直前の明治十一年五月現在の十二小区は左の通りである。
 有田皿山 一三四八戸 五六六二人
 新村 七八三戸 三三五八人
 曲川村 六一七戸 二五九八人
 大木村 四五七戸 一八九三人
 山谷村 三二九戸 一四四三人
 (後大木と山谷は合併して大山村になる)
 中里村 三四一戸 一五三七人
 大里村 三四○戸 一五四六人
 (後中里と大里は合併して二里村になる)
 合計 四二一五戸 一八○三七人

 そして、大区副区長菊地山海郎の下に十二小区戸長は牛津出身の徳見知愛であり、これを四名の副戸長が補佐している。又、五十戸一人の割合で五十一人の惣代が選出されて後の区長や議員のような役を務めている。

 明治十七年七月には大区小区制が廃されて郡制になり西松浦郡が生まれた。

十二小区の町村はこれに編入されたのである。初代の郡長は永田輝明であり、郡役所は伊万里に置かれた。そして、有田皿山の戸長には渡辺源之助と中村勘蔵、新村の戸長には松村定次が就任している。戸長制が廃止された明治二十二年の戸長は、有田皿山は渡辺源之助、新村は田代健である。

 明治十二年には「長崎県町村会規則」が定められて翌年早々には、有田皿山では町会、新村では村会が開かれている。当時の資料には議員の名前はなく、ただ有田皿山町会議長は深川栄左衛門とある。戸長の下で歳入歳出などを議していたのであろう。

 明治十六年五月には現在の佐賀県が長崎県から分離独立した。そして、明治二十一年に市町村制が公布された。翌二十二年四月、有田皿山は有田町と改称して町長平林伊平。助役田代健(前新村戸長)収入役田代呈一。
新村は村長松村定次、助役勝屋玄九郎である。

 町村会議員の選挙は四月に行われて有田町十八名。新村十二名の議員が生まれた。選挙法によって男子二十五才以上で地租又は直接国税二円以上の納税者には選挙権および被選挙権があった。五円以上の納税者から選ばれた者が一級議員で、二円以上五円未満の者から選ばれたのが二級議員である。一・二級は同数であった。但し、一級議員の資格はあっても二級から立候補することが出来た。

 有田町で二級で当選した渡辺源之助は、十年の長期間戸長を勤めた酒造家である。又、松本庄之助は、その前年洪益会社という銀行類似会社を設立しその経営者であった。共に一級議員の資格はあった。だが、当時盛り上がり始めた町民運動のリーダーとしての建前から敢て二級議員として立候補したのである。

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