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第八章 明治中期の有田
(三)銀行次々に生まれる
 明治の初めまでの金融業といえば質屋であった。だが、明治九年の国立銀行条例によって株式会社組織の国立銀行が各地に続々と設立された。明治十三年には一五三行になって政府規定の限度に達したので、それからは私立銀行又は、銀行類似会社が全国各地に雨後の筍のように生まれたのである。

 明治十二年にパリから帰朝した深川栄左衛門は、欧州に於ける金融資本、即ち銀行の効用を認識していたので、国内のこの動向に対応し陶業金融のための銀行設立の必要を唱えた。これに伊万里の有志石丸源左衛門(初代伊万里町長)松尾貞吉(伊万里一の豪商)等が賛同した。
そこでこの三名が上京し運動した結果、鍋島本家を始めとして小城鍋島家及び大隈重信等が賛同して大株主になった。

 そして、明治十五年、資本金三十七万円の伊万里銀行が伊万里町相生橋脇に設立され、旧佐賀藩士の下村忠清が頭取になった。十七年には唐津に出張所、十九年には横浜に支店を設置した。だが、財界恐慌に逢着して一時は経営難に陥った。しかし、旧小城藩士の蓑田助之允が頭取に代わってから減資などの適切な整理で立ち直ったのである。

 明治二十年の佐賀県の銀行は左の通り

 国立銀行 佐賀 第百六銀行 資本金三十万円
 国立銀行 小城 第九十七銀行 資本金五万円
 私立銀行 伊万里 伊万里銀行 資本金三十二万円
 私立銀行 佐賀 栄銀行 資本金十一万円
 私立銀行 佐賀 三省銀行 資本金五万円
 私立銀行 佐賀 古賀銀行 資本金五万円
 私立銀行 鹿島 鹿島銀行 資本金十万円
 私立銀行 塩田 志保田銀行 資本金六万円
 私立銀行 唐津 唐津銀行 資本金三万円
 伊万里銀行は佐賀県第一で全国でも屈指の大資本の銀行であった。当初の取締役は前記の三名で、有田からは九千五百円の株主として松本庄之助がいた。

 伊万里銀行が生まれた明治十五年、深川栄左衛門が、有田の金融を伊万里銀行だけに依存していては不便だとして泉山に創立したのが銀行類似会社の有田貯蔵会社である。主として窯焼への金融を目的として、百田恒右衛門、藤井恵七、同喜代作、川崎精一等が参画した。後で本幸平の横町に移って、前の戸長中村勘蔵が主任になっている。

 明治二十一年七月には、四月に創立した洪益会社に対抗するため、貯蔵会社を銀行に改組して有田貯蔵銀行を設立した。
前記の人の他に田代与一、同呈一、犬塚儀十、手塚政蔵に伊万里の松尾良吉、新村の前田儀右衛門等が発起人となった。資本金は五万円とし、現在の佐賀銀行有田支店の地に移転した。頭取は深川栄左衛門で、後有田銀行と改称した。

 明治二十一年四月、有田の商人や庶民のための金融機関として、赤絵町に資本金二万円を以て銀行類似の洪益株式会社が創立された。発起人は松本庄之助、蒲地兵右衛門、嬉野為助等で、松本が専務として経営に当たった。後で改組して株式会社洪益銀行と称した。

 明治二十五年三月、新村外尾宿(現在の本町)に資本金二万円の協立銀行が創立された。頭取は前田儀右衛門で専務として黒牟田の益田権平、次いで桑古場の正司久和一が任じている。昭和四年二月には有田銀行に合併した。  こうして明治中期に有田の金融機関は夫々の特色を持ったこの三行によって整備されたのである。昭和十四年には、この伊万里銀行、有田銀行、洪益銀行に武雄の武雄銀行の四行が合併して佐賀興業銀行になった。現在の佐賀銀行の前身である。

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