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第八章 明治中期の有田
(四)石場騒動(上)
 町政施行前後、有田皿山の物情は騒然としていた。それは、町議会が開かれる前から町民達は一戸当たり年二円六十銭に高騰した町費の減額を叫んで集会を開き、代表を選んで減税運動を起こしていたからである。この運動に対して千二百戸の町民の九割近くが賛成した。そこで町民運動の指導者達は賛成者の署名を集め減額要求の理由を書いた建白書を町議会へ提出したのである。

 初の町議会で平林町長は、町民のこの要望に応えるには、財源となる町の基本財産の確立以外に方途はないとして、議員からの答申を求めたのである。これに早速応えて、渡辺源之助、松本庄之助、正司碩譲の三議員が連名して提案したのが「磁石場を有田町有として基本財産にする件」であった。
 この磁石場は渡辺源之助が戸長だった明治十三年八月から官有地でなく有田皿山共有地になり、二十二年からは内外窯焼の借区になっていた。今度の町村制施行によって有田皿山が有田町に改称された機会に、これを正式に町有財産とすれば、磁石代収入の一部を以て町民負担は軽減されるというのが提案理由であった。

 これに真っ向から反対したのは、窯焼である平林町長と窯焼工業会長にして議員で収入役の田代呈一だった。勿論窯焼の議員は南里平一を除いてこれに同調した。その反対理由の第一は現に窯焼が正式に借区して管理していること。第二には石場が藩から下げ渡された時に運上銀(税金)は窯焼が上納していること。よって石場の所有権は有田内山の窯焼にあると言うのであった。

 だが、この論には三つの弱点があった。その一は借区して税金を払っていることは、借家して家賃を払っていることと同様で、その権利は所有権ではなく借区権であること。その二は外山窯焼には権利がなく内山窯焼に限るとしたこと。第三には内山窯焼の集団は窯焼工業会の一部ではあるが、工業会は公法人でないこと。即ち、その所有権は共有であるから分割されて流動的であることであった。

 議決の結果は提案者三名を新しいリーダーとする町民派の勝利となって窯焼派は敗れた。一万五千坪の磁石場は有田町有としてその基本財産になり町長が管理することになった。但し、予算編成に当たる委員十名はすべて窯焼から選ばれると町有規約に明記された。
 議決の直後、平林町長と田代収入役は辞任し、町長には助役の田代健が昇格して助役には窯焼で町民派に同調した議員の南里平一が就任した。そして、石場管理について町長を専ら補佐する名誉職を設けて久富三保助を起用した。彼は久富与平の後嗣であるが、東京法学校を卒業したばかりの青年だった。

 そして、この新しい執行部は直ちに町役場を窯焼工業会の所在する勉脩学舎の中に移転した。これは町有規約に基づいて窯焼工業会を工業会議所として町が完全に掌握する為の処置だった。

 有田町の石場町有議決と町役場移転に衝撃を受けたのは、新村と曲川村の窯焼だった。

柿右衛門他九名の代表は有田町に対して、外山の窯焼達もその建設費に相応の寄付をしているにも拘らず、それには一言の挨拶もなく勉脩学舎に町役場を移転した事に強く抗議した。だが、田代町長は創始者の江越先生から学舎の運営については一切有田町に委任されているとして応じなかった。

 その数日後、新村村長松村定次が町有議決の取消し要求に起ち上がったのである。その根拠は、明治四年の廃藩置県に際し藩が石場を下げ渡した時の達文の宛名にあった。宛名は歴然と内外皿山となっている。従って石場は有田町だけに所有権があるのではない。又、内山窯焼のものでなく、内外窯焼の共有物でもない。石場は有田町と新村、曲川村、大山村、大川内村の法人格を持つ一町四ケ村こそが共同所有者であると主張したのである。
 又、有田町が、窯焼達の石場に支払う賦課金である筈代を町の収入にしようとしていることは理不尽である。一度は町民派に屈したもののこの事では内山窯焼も外山窯焼と利害は共通するから、町有議決の取消しに内山窯焼が同調するよう工作しなければならないと、窯焼達に指示した。又、曲川、大山の村長に対しても共同戦線を積極的に呼び掛けた。

 この新村村長松村定次は大庄屋の次男である。明治六年、新村の住民が飢餓寸前の状態にまで陥った時、三十才前の若年ながら単身県庁へ乗り込んで県米三百五十俵を緊急に購入して住民の困難を救ったというだけあって、彼のこの事件に対する処置は極めて適切で、その作戦は寔に巧妙であった。

 当初は有田町だけの事件だったのが、こうして二里村を除いた全有田郷と伊万里郷大川内の内外山一町四ケ村を巻き込む一大紛争に発展したのであった。そして、遂に西松浦郡長がその調停に乗り出さざるをえない事態にまでなったのである。

 松村定次の指示に従って外山窯焼代表は有田町に対して石場を有田町専有としたことは、明治四年、藩が内外皿山へ下げ渡した歴史的事実を無視した不法行為であるから、即時白紙還元せよと抗議した。だが、有田町長は土地台帳に有田町共有地と明記されており、石場の地租年十五円も町が納入しているから、当然であるとして一蹴した。
 そこで六月には、新村、曲川村、大山村の窯焼代表は連名して、先に有田町へ抗議した趣旨の通りの長文の訴願を西松浦郡長荒木卓爾に提出したのである。

 事態を憂慮した郡長は、この訴願は一応関係三村長に預けて現地に出張した。そして、泊り掛けで精力的に和解工作を試みた。だが、その緒さえ掴むことは出来なかった。それに大川内村の窯焼達も三村に合流しようと動きだした。又、町有規約には不満を持つものの内山窯焼は松村の主張には同調しなかったので、郡長は工作を断念せざるを得なかったのである。

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