Home Back 37/58 Next

第八章 明治中期の有田
(五)石場騒動(中)
 その頃有田では、石場の出納事務を町が工業会から取り上げたことから、筈代の取扱いについて田代町長と工業会長の田代議員との争いにまで発展した。又、内山窯焼の考え方が窯焼としての連帯感から、石場は内外総窯焼の共有だと変化して来た。そして、八月、内山窯焼の総集会となって、石場筈代収支の取り扱いは即時工業会に復すると同時に先の町会議決は取り消すべしと決議するに至ったのである。

 この挑戦に対して町民派は、この決議は必ずしも窯焼の総意ではないと判断したので、中以下の窯焼を夫々の縁故によって説得して町有規約を厳守するという盟約書に記名捺印させた。そして、その数は内山窯焼七十名の過半を越える三十六名に達したのである。次に工業会が保管している石場の関係書類や帳簿を全部町で接収すると同時に筈代はすべて町の収入にするという強行手段をとった。
この事を伝え聞いた数百人の町民は役場に群衆して盛んに気勢を上げた。秋祭の前日のことであった。

 事態の急変に驚いた外山四ケ村の村長は石場の運営は内外窯焼よりなる工業会が取扱うべしという意見書を携えて有田町長を訪れた。有田町は町長、助役、久富補佐人、渡辺と松本の両議員が応対した。町民達は役場の広庭に火を焚いて成り行きを注視した。だが、会談は延々十時間に及んだものの結論は出なかった。そこで、外山の四村長は連署して、土地台帳記名誤謬の訂正を願う文書を佐賀県知事樺山資雄へ提出したのである。

 これに呼応するかのように十二月、内山窯焼派は平林伊平以下十七名の連署を以て「石場云々に付き内外皿山工業家関係の事実意見書」を知事宛に提出している。

それによれば石場は明治四年の廃藩置県によって内外皿山へ下げ渡された。明治八年には内外窯焼は陶業盟約を結んだ。その関係は鳥の両翼のようなものである。しかるに有田町会は外山を斥けて議決した。そして、窯焼からの筈代金を町費等に消費しようとする事には窯焼は同意出来ないという趣旨である。しかし、皮肉にもそれを議決した町会の議長だった平林伊平が筆頭に名を出しているのである。

 遂に県にまで及んで来た事態を憂慮した知事は二月下旬、西松浦郡長と一町四ケ村の長とを県庁に招集して、これから県が調停に当たるから、何れも帰任して調和策を講ずるようにと申し渡したのである。

 そして、三月初め、勧業課長や県会常置委員等六名を有田に出張させて、有田町役場に五町村長と内外山窯焼の代表及び町民派の代表を個別によんで和解を試みた。
県が提示したのは、甲案として内外山窯焼の共有とし、その収入の何%かを町へ提供する事。乙案は一町四ケ村の共有とし、その管理運営は窯焼工業会に委任する事だった。この事を知った町民は続々と法元寺に集合して反対の気勢を上げたので、この日は空しく彼等は帰庁せざるを得なかったのである。

 五月二日、遂に知事は地券面の有田皿山共有の取消しを通達したのである。そして、関係人民協議の上、地主を申し出よとあった。窯焼は願いか容れられたとして早速地主出願の準備に着手した。だが、この達に反対する町民は大変激昂して窯焼の出願は阻止しなければならぬとして十一日夜、西光寺に三百人の町民が集合した。そして、窯焼のリーダーである深川栄左衛門と田代呈一の邸へ押し掛けようとした。その報に接した有田分署は伊万里署から警部以下八名の応援を求めた。

 一方知事のこの達によって外山四ケ村と内山窯焼派との共通の主張は通ったとして、総窯焼を地主として出願することに一致したので、両派の代表は窯焼集会所に集まった。そして、大川内村代表の県議川原茂輔が起草した願書に調印しようとした時、西光寺から町民達が群れをなして押し掛けあわや乱闘になろうとしたので、両派は一時事を中止せざるを得なかったのである。

 その後両派は秘に総窯焼を地主とする願書を代表が携行県へ出願しようとした。しかし、県側は、今町民が激昂して暴動寸前という不穏な状況だから、地主の事はしばらく棚上げして、採掘権だけ申請したらどうか、それさえあれば窯焼の営業には支障はないだろうと両派を説得した。そこで改めて窯焼から採掘願いを出す事にして辞去したのである。
 その頃、この通達に激しい衝撃を受けた町民派はこのような達を出した知事を行政裁判所に訴える事にした。そして、久富が上京して訴訟を起こしたのである。一方、窯焼派は採掘願いの取纏めに躍起となった。特に町民派に同調して盟約を結んだ三十六名の窯焼に対しては、盟約破棄の意思を表明しなければ採掘願いの連名には加えない。そういうことになれば石場の石は一片も使えなくなると脅しをかけた。そのため、この三十六名は盟約取消し書を町へ提出せざるを得なかった。そして、内外総窯焼連名の磁石採掘願いが県に出された。六月二十二日のことである。

 しかし、窯焼のこの動きに対して町民派の代表は事前に県に出頭して左のような警告をしていたのである。若し県が有田町民大多数の意思を無視して窯焼の採掘権を許可されると全町民の世論が沸騰して大紛擾を招き流血の惨事を見るは必至である。

それでも敢えて県が強行されるならば、その責任は一切県にあって有田町は関知し得ないと。

 この警告が効を奏したのか、県は六月三十日に採掘願いを却下した。そして、西松浦郡役所を通じて地主確定まで当分の間は陶業盟約の規定に従うようにと関係町村へ達した。

 しかし、この達は逆効果をもたらした。即ち、窯焼派は、陶業盟約は我々の規約だから、これは石場の所有権は窯焼にあると認めたものだと解釈して、石場の関係書類を返せと町長に申し込んだのである。それに激昂した数千の町民は西光寺と報恩寺とに集まって早鉦早太鼓を鳴らして窯焼集会所のある陶山神社へと押し掛けた。だが、この騒ぎは伊万里警察署から署長以下が急遽出動して鎮撫したのである。
 そして、県からは保安課長等数名と郡からは書記が駆け付けて来て、内外窯焼、町会議員、石場委員、人民総代等を夫々呼び寄せて説諭した結果、七月十日に県郡の役人と五町村長を立会い人として陶業盟約の疑義解釈について意見調整の会談を桂雲寺で開くことになった。列席者は内外窯焼と有田町の議員区長とに限定し、傍聴人も双方五十人に制限したのである。

 三日間に亙る会談は町民派の譲歩によって両派間の調整が成ったのである。町民派が譲歩した理由は、この会談中に先に知事を行政裁判所に訴えていた町民派の訴状が却下されたからである。

 この調整の結果、盟約による現行頭取制を廃し、関係五町村長から成る複数頭取にして、これに内外窯焼が石場管理を委託すること。及び窯焼の輪番制を廃止する。その他は現状通りとして変改しないということであった。

Home Back 37/58 Next
Ads by TOK2