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第九章 明治後期の有田
(六)石場騒動(下)
 その翌日、頭取を受任した五町村長は石場に集合した。だが、地元頭取の田代町長が事実上の頭取であって、他の頭取は毎月一回の定例会議に出席するだけであった。その頃窯焼から出石料値下げの要請があった。だが、田代だけが反対して拒否した。一方窯焼は先の会談で廃止になった窯焼輪番制を復活させるなど昏迷が続いた。そこで新郡長福島輝世は両派の代表を招んで抜本的解決を計ろうと努力したが、これも遂に実を結ばなかった。

 現地では町民多数が群衆して四村長の頭取解任決議を頭取会議から帰途の新村助役に突き付けた。この事件以来四村長は石場に寄り付かなくなった。又、年末には石場頭取有田町長の名を以て再度の出石料の値上げを窯焼へ通告するなど、一旦は解決したかに見えた抗争は再燃したまま明治二十四年は暮れたのである。
 明治二十五年四月には、先に有田町が町の石場所有権を否認した樺山知事を訴えていたのに対し地主は未定であるとの長崎控訴院の判決が下った。それは知事から各町村長宛の「石場地主の儀関係人民協議の上来る六月二十六日までに申し出よ」の達になった。これに応えて窯焼派は内外窯焼が地主であると出願した。だが、県は人民協議の上申し出づべきことで窯焼だけの出願は受け付けぬと却下した。そして、同日付けで知事は郡長を通して、石場の納税義務者は有田町と新村の内外尾、黒牟田、応法、曲川村の内南川原、大山村の内広瀬、大川内村の内大川内、一ノ瀬の一町七字となすと示達したのである。

 この示達によって納税義務者が地主だとする県の意図がこれで分明したと一番喜んだのは一町四ケ村の共有を主張していた新村々長松村定次であった。

又、町民派も有田町の専有ではないが、有田町には十七分の十の権利を認めたものとして受け入れざるを得ないと認識したのである。

 形勢不利と感じた内外窯焼は、十ケ月以上も機能していない町村長の頭取制は無意味であるから、これを解任して町民派を威圧出来る人物を頭取に持ってきて力を以て石場勤番所を掌握するという作戦を立てた。そして、選んだのが元の有田分署長警部の鹿江秀敏であった。それに応じて彼は数人の屈強な壮士を引き連れて有田に来た。それから窯焼に迎えられて石場勤番所を占拠したのである。その上分署に要請して数名の巡査を警備に協力させた。そこで町民派は遠巻きにしたまま行動出来ずに対峙の状態が数日も続いた。
 樺山知事の後任永峰弥吉から紛議解決に協力を頼まれたのは旧友の松村辰昌だった。新村の出で松村定次の叔父である彼は急遽有田に帰って仲裁に当たった。先ず彼は石場の占拠を止めた上郡に対して鹿江の頭取就任の認可申請をすべしと窯焼を説得した。町民派は南里助役名を以てこれに故障を申し立てたため、郡役所はこの申請を却下したのである。

 翌明治二十六年は景気も回復し、四年も続いた紛争に双方共に倦怠の感が強くなっていた。一回目の町会議員の改選には話し合いの機運が起こって両派による結論は、一級議員九名を窯焼派から二級議員九名は町民派から選出する。町長には田代健に代わって渡辺源之助を全員一致で推薦することになった。

 二十七年六月、前年末部長になった高須欽は三派の代表を郡役所に招集して、無条件で一任するとの三派の合意を取り付けた郡長は左記の通りの案を提示したのである。

 「明治二十五年七月一日県より達したる納税義務者を以て石場共有地主とし、地主たる十七字は町村制に準じたる組合を組織し、その組合が石場を管理運営するものとす」

 町民派と外山派は直ぐ賛意を表した。だが、窯焼派は躊躇逡巡した後漸く賛成したのである。それから三派間の折衝が数日をかけて精力的に続けられた。第一は組合議員の定数と振り当てについて、町民派と窯焼派は字母に一名というのに対して外山派は内山外山各十名を主張した。
第二は管理者について、前者は有田町長とするに対して後者は五町村長の輪番とすると主張した。

 結局は夫々譲り合って、組合議員は二十名とし内山外山各十名の同数とする。管理者は有田町長ということになったのである。こうして六年に及んだ騒動は解決を見たのである。

 その後大正二年に起債の都合から、管理者は部長になったが、大正十五年の郡制廃止で再び有田町長に還元したのである。

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