Home Back 39/58 Next

第九章 明治後期の有田
(一)鉄道開通と両駅
 明治二十七年(一八九四)五月に九州鉄道会社によって佐賀武雄間の鉄道が開通した。この九州鉄道会社は、明治二十一年八月に福岡、熊本、佐賀、長崎の四県が共同して設立したもので、社長には政府の世話によって農商務省局長の高橋新吉が就任した。本社は門司にあってこの四県の鉄道網の建設を進めていたのである。

 佐賀−柄崎(現在の武雄)間の工事が終れば次は武雄から長崎県へ向かう長崎線だった。九州鉄道の当初計画は武雄−有田−早岐の線だった。だが、婚野方面では武雄−嬉野−彼杵の線の方が距離が短縮されるとして運動を起こそうとする機運が生じたので、これを阻止するため、有田、佐世保、早岐が連合して運動を展開したのはその年の初頭であった。
 明治二十七年二月の終りには、武雄から有田への延長について、有田町から深川栄左衛門等や新村から前田儀右衛門等が門司まで足を運んで九州鉄道会社長高橋新吉や門司にいる常議員等に陳情している。

 その理由として、有田と新村の十三山が有田焼の中心であって海外輸出のため、伊万里港から神戸、横浜へ輸送するのは年間九十万俵であり、他の十四山(大外山を含む)分まで合算すると百五十万俵である。しかし、伊万里までは車力又は牛馬の力に依っている。だが、天候不順の時などはとても困難である。又、伊万里港から横浜、神戸への航海船は百屯余りのもので毎月二回か三回に過ぎないので、納期を守ることは大変である。運賃も産地から伊万里までの駄賃や伊万里での経費と汽船賃を合計すれば一俵に付き十二銭にもなる。

 幸い今回佐賀武雄間開通の機会に有田まで僅々十二キロの延長が出来れば百五十万俵の陶器は全部門司港へ輸送して、毎日出帆している汽船に積み込めば従来二十日以上を要したのが僅かに二・三日で済む。又、運賃もずっと低廉になる。それに武雄有田間は山を崩したり橋を架けたりする難所はないので、工事は至って容易である。又、阪神や下関等から移入している陶磁器の諸原料や薪材なども鉄道を利用出来るから、是非とも有田へ延長されたいというのであった。

 そして、一方では有田の鉄道委員等が佐世保に出張して佐世保の鉄道委員と連携して運動を起こしたのである。有田、佐世保、早岐の連合したこの運動よりも佐世保軍港に通ずるという軍事的条件が優先して、嬉野の誘致運動は効を奏しなかった。
 明治二十九年四月、南里平一が町長になった。そして、九州鉄道と交渉に当たる委員に窯焼派から田代呈一、町民派から松本庄之助が正式に任じられた。その下に各区から一名宛十名の委員が選任されたのである。だが、有田町と九鉄との交渉は最初から難航した。第一は停車場の位置であり、第二は用地の買収であった。

 有田町は町民世論に従って駅の位置を中樽と主張した。だが、九鉄は外尾山付近というのであった。九鉄の基本計画書には停車場は有田に設けると明記してあるから、有田以外の外尾山は逸脱するではないかと有田が言えば、有田というのは有田町に限らず有田村も含むと九鉄は反発する。この年早くも新村の名を有田村に変えた村長松村定次の先見がここにも見られるのである。

 九鉄は、中樽は周囲に山が迫って横の面積が無い上に高地だから地形上不可である。又、近々に敷設される伊万里鉄道との連絡を考慮すれば外尾山付近が最も適していると主張するのであった。町は、九鉄が自説を固持すれば有田町の土地は一片といえども買収に応じない。又、町内での測量も絶対に許さぬと強硬であった。

 そこで九鉄が譲歩して有田町と有田村との境界付近、即ち町と村とに半分づつ跨がった岩崎付近とすると設計を変更した。その後両者が妥協した結果、先に九鉄が示した岩崎は赤絵町トンネルと余りに接近しているので、外尾山との中間地(現在の場所)を停車場の位置とする、と同時に中樽に荷物積卸場、即ち貨物駅を設置するということで落着した。
 そして、明治三十年七月、武雄早岐間が開通して有田駅が営業を開始した。翌三十一年二月、中樽荷物積卸場、即ち貨物駅が開業したのである。

 明治四十年七月に九州鉄道は国有になり、翌年には鉄道院が創設された。有田町はこの機会にと中樽貨物駅を普通停車場に昇格する運動を起こしたのである。二名の鉄道委員の内田代呈一は明治三十四年に死去していたので、一人になった松本庄之助が単身昇格運動を続けた結果、明治四十二年に何とかその目的を達した。

 即ち、町村が建設費用を負担すれば、政府の認可は要しないでその地方の管理局の認可だけで出来るという簡易停車場に昇格したのである。

そして、この年の春上有田停車場は竣工し全町挙げて落成祝賀会を催うした。各区は思い思いの趣向を凝らした余興を出した。中でも岩谷川内区の出し物は美々しい花魁道中であった。有田の方言で「降りない」ことを「おいらん」と言う。岩谷川内の者は有田駅が近いので、上有田駅には「おいらん」が、全町のお祝だから喜びは共にすると言う心意気の趣向だったのである。

 この時町が負担した建築費は僅か二千円だったので、マッチ箱のように小さく貧相であった。だが、大正五年には全額政府の費用を以て普通停車場として拡張された。その建設費は八千三百六十五円を要したと言う。

 有田駅の発足より約一年遅れて明治三十一年八月、伊万里鉄道が開通している。以下肥前陶磁史考より引用する。
 「(前略)私設伊万里鉄道が開通し、有田駅に接続するようになってから陶磁器取引上密接な関係のある両町間に多大の便宜を生ずるに至った。この鉄道の企画は去る明治二十八年八月で、資本金三十五万円を募集し発起人は田中藤蔵(初代伊万里町長石丸源左衛門の弟)本岡儀八(伊万里銀行頭取)藤田与兵衛(多額納税者)松尾広吉(貞吉の子で多額納税者)中村千代松(後の伊万里町長で県会議員)柳ケ瀬六次(浜町陶器商)山崎文左衛門(同上)等で田中藤蔵が社長であった。そして、この建設については、時の郡長高須欽の斡旋が大変力になっている。(中略)従来有田から伊万里までの人力車代は片道一円を要したので、多くの有田商人は鞋を履き歩いて往復していた。しかし、この開通で四十二銭で往復が出来、しかも歩いて六時間を要したのが僅か一時間余りで往来出来るに至ったのである。」

 しかし、伊万里鉄道の営業は振るはなかった。ニケ月目の十月には早くも九州鉄道に身売りせざるを得なかったのである。

Home Back 39/58 Next
Ads by TOK2