Home Back 40/58 Next

第九章 明治後期の有田
(二)鉄道開通直前のこと
 窯焼の製品をその委託によって定期的な入札で販売する会社が有田町と外山に夫々出現したのは明治二十九年のことである。この年は日清戦争直後の好況の年であり、陶磁器の全国生産高も史上最高を記録した。又、九州鉄道会社による長崎線が翌年七月の開通を目指して武雄早岐間の敷設工事と有田駅の建設工車が進行している最中であった。

 藩政時代、内外山窯焼の製品の内地向販売は伊万里商人が独占していた。有田の商人は錦付物とガサと称する等外品しか販売することは出来なかった。だが、維新の変革後は有田商人が徐々に台頭し、又、窯焼から転業する者もいて伊万里商人の牙城は日々衰えを見せてきた。そして、目前に迫った鉄道の開通は伊万里港より舟運に頼らない処の流通革命を予見させるに至った。
 即ち、伊万里商人への隷従関係から脱した窯焼の自主性の確立への機運が醸成されたのである。それは窯焼の製品は自らの手によって販売しようとする動きであった。その具体的な表われが有田町に於ける有田磁器合資会社と外山三ケ村による肥前陶磁器合資会社の相次ぐ設立となったのである。

 いずれも社員窯焼の製品をその委託によって販売する会社で、その方法は定期的な入札による。対象は伊万里と有田に居住する商人で、会社が規定するところの資力とその他の資格を具備する者に限られた。

 有田磁器合資会社、一般には丸磁会社と称ばれ有田町の窯焼で構成されている。

 一、本店 有田町田代呈一宅
 二、目的 磁器の受託販売
 三、設立月日 明治二十九年八月二十五日
 四、資本金 四千円(社員四十名)
   無限責任社員十四名 三千五百円
   有限責任社員 二十六名 五百円
 五、業務担当社員(社長)田代呈一
 六、増資 明治三十九年資本金一万五千円
 七、解散 明治四十五年二月
 前年の八月に設立された無限責任有田陶磁器信用購買販売組合に吸収される。

 肥前陶磁器合資会社

 一、本店 有田村二八九番の三
 二、目的 陶磁器委託販売
 三、設立月日 明治二十九年十二月十一日
 四、資本金 四千円(社員三十六名)
   無限責任社員十一名 三千五百五十円
   有限責任社員二十五名 四百五十円
 五、業務担当社員(社長)青木甚一郎
 六、増資 明治四十一年 資本金九千円
 七、解散 大正三年十月
   社員の大部分は明治四十四年に伊万里で設立された伊万里陶磁器株式会社に販売を委託する。

 この入札による商工間の流通方法は昭和十五年(一九四○)の日陶連の統制まで四十四年間続いた、有田焼産地の主なる流通の形式であった。

 明治二十八年(一八九三)十月一日、有田徒弟学校が開校した。

江越丸太の主唱にもとづいて設立された勉脩学舎を基盤に、一般実業教育の普及に伴い、更に当時実業教育令の発布により、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村の一町田村立で設立された。その維持費は主として磁石場の収入と県と国庫の補助を仰ぎ、不足分は有田町費より捻出した。校長には岐阜の川崎千虎を招聘した。分科は製坏と陶画の二科目であった。実技教師には、泉山の深海竹治が彫塑を、白川の江口米助が捻細工、上幸平の楢崎武吉がろくろ細工を担当した。そして、明治三十三年四月、佐賀工業学校有田分校に発展し、同三十六年四月には佐賀県立有田工業学校に独立し、寺内信一が校長となった。 分科は従来の陶画、製品模型の外に陶業及び図案の二科を増設している。

 明治二十九年三月、有田五二会によって陶磁器品評会が有田町の桂雲寺で開催された。五二会というのは、元元老院議官の前田正名が官を辞した後、全国を遊説して地方産業団体の育成と殖産興業運動の結果生まれたもので、有田では深川栄左衛門と田代呈一が代表であり、品評会の費用は深川が負担している。この民設の品評会は第四回までで、第五回から西松浦郡陶磁器同業組合の主催になった。

Home Back 40/58 Next
Ads by TOK2