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第九章 明治後期の有田
(五)明治四十年代の有田
 青年実業会の佐賀県連合会が明治四十年(一九○七)四月七日、伊万里商業学校講堂で開催され、県下各地の青年実業会から夫々の議案が提出された。その時吾が有田青年実業会が提出した議案の中に県立陶磁器試験所の設置を県当局に建議する件があった。これが二十年後の昭和二年(一九二七)に県会で可決されて翌三年八月に左の設置要項通り決定している。

 一、昭和二年度通常県議会の議決を経たる予算三万七千円を以て、西松浦郡有田町に第一窯業試験場を設置する。
 二、今回更に、新たに高取盛氏より窯業試験場建物及び設備として価格一万五千円の物件寄付ありたるを以て、藤津郡塩田町に第二窯業試験場を設置する。
 この有田青年実業会は明治三十一年に発会した二十才代の商工業者の集まりで今日の青年商工会議所のようなものである。発起人総代は二十七才の深川忠次で、初代会頭は深川栄左衛門である。翌三十二年の春季大会では正会員四十余名、特別会員(名誉会員)六名で会頭には久富三保助が選ばれている。

 明治四十三年、辻勝蔵の長子喜一は大阪の商人和久栄之助と共同して上有田駅前に有田製陶所を創立した。当初汽車の便からして有田駅近くに位置を求めていた。だが、上有田駅実現の見込が立ったので、有田町の誘致によって上有田駅前に変更したのである。

 専ら建築用の磁器タイルを製造した。そして、和久単独の事業となった四十四年には十万円の資本金になっている。又、壁タイルの他、床タイルとモザイクタイルも製造した。

 明治四十四年一月、本寺平の深川忠次は新宅の窯と世人が称んでいた工場を資本金十五万円の深川製磁会社に発展させている。社長は長子進、常務取締役は次子勇とし、主なる出資者の佐賀の福田慶四郎、唐津の大島小太郎、福岡の伊藤金次が取締役に、鹿島の森田判助は監査役に就任している。名実共に同族会社を脱皮して近代的な株式会社になっている。有田陶業界では初めてのことである。

 深川製磁会社の母体である新宅の窯は、明治二十七年(一八九四)香蘭社から独立した深川忠次の工場である。
彼は明治二十六年のシカゴ万博に出品し、自ら出席して一等金牌を受賞している。これに自信を得て独立したものと推量される。

 なお、明治後期の万国博覧会は左の通りである。

 明治二十二年(一八八九)パリ 一等金牌 九代深川栄左衛門
 明治二十六年(一八九三)シカゴ 一等金牌 深川忠次
 明治三十三年(一九○○)パリ 一等金牌 深川忠次
 明治三十七年(一九○四)セントルイス 一等金牌 深川忠次

 会社設立の前、明治四十三年一月に深川忠次は宮内省御用達を拝命している。

 明治四十四年五月には伊万里の柳ケ瀬六次、平井卯七、末石喜左衛門等が発起して資本金六万円の伊万里陶磁器株式会社を創立し、平井が社長、末石が専務になった。主として波佐見、木原、江水諸山の製品を委託販売する入札を社の業務とした。

 その年八月には、近く解散する有田磁器合資会社の改組として産業法による有田陶磁器信用購買販売組合が生まれた。
そして、九月に有田物産陳列館が落成したので、そこに事務所を置いた。

 四十四年十一月には久富季九郎が蔵春亭を再興して中野原幸恩に工場を建設して諸種の優秀な磁器を製作したのである。

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