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第十章 大正年代の有田
(一)南洋印度視察団
 大正三年四月、山本権兵衛内閣の後を承けて大隈内閣が生まれた。七月には第一次世界大戦が勃発し、日本は対独宣戦布告をして参戦したのである。その年の十一月総理大臣大隈重信は佐賀へ帰郷している。その時有田に来て石場、工業学校、香蘭社、深川製磁等を巡覧し、翌日は前年六月に落成した有田小学校の講堂に於て全町民に呼び掛け、有田焼の国際的地位を自覚してその発展を期せねばならぬと講演している。

 有田小学校について当時の佐賀新聞は次の通り報じている。「新築校舎は教室二十二、講堂、理科室、作法室その他の特別室八室あってその構造の広大で、その建築の周到なことは実に県下第一と称すべく、殊に理髪所、救療所等を設くること小学校としては完備と言うよりも寧ろ贅沢過ぎるの感がある。」と。
 この講演を間いて大変感激した名工井手金作は特別に径二尺八寸の孔雀絵の大金魚鉢を精製して大隈総理に寄贈している。

 この時大隈から示唆があったのか、県は翌四年二月、南洋印度方面へ県産陶磁器の販路開拓のため、視察団を派遣することになった。有田からは香蘭社員薄地徳一と外尾山の青木甚一郎、藤津郡から堤清一、大串音松が選ばれた。ドイツとフランスが戦争に巻き込まれている今が、南洋進出の絶好のチャンスと県は判断したのである。

 視察団調査の目的は

 一、取引されている陶磁器の種類
 二、輸入の状況
 三、本県陶磁器の輸入の状況と取引の方法

 四、需要者の嗜好にあった陶磁器の改良
 五、販路拡張及び輸出上参考となる事項

 であった。そして県費より金二千円を捻出して調査費に充当することとなった。その額は現在の二千万円に相当する。

 藤津郡の二名は二月十五日、有田の二名は二月二十七日神戸から出発し三月十六日、シンガポールで落ち合っている。そして、藤津郡組は主としてマレー半島を巡歴した後、香港経由上海から中国の内部に入ろうとしたが、日貨排斥が盛んだったので、計画を変更して帰国している。有田組は印度を巡歴することになり、コロンボを経て三月三十一日にボンベイ着、ここに二十四・五日滞在してカルカッタに汽車で行きここでも約半月滞在して帰国の途についている。
 藤津組は堤清一、有田組は青木甚一郎が夫々視察談を佐賀新間に発表している。堤の報告によれば、低廉な硬質陶器や尾農地方の製品と対抗することは難しいと強調している。だが、青木の報告は極めて楽観的である。事実藤津組の場合はマレー半島のゴム碗の受注は多少あったものの、成果は大したものではなかったようである。

 青木の場合は有田産陶磁器の受注は殆どなかった。だが、三井物産印度支店と接触した青木は、低廉な瀬戸製の碍子であれば相当の需要があると確信したので、その滞在中に名古屋の松村八次郎と連絡して数百屯の碍子の注文を獲得したのである。

松村は同じ有田村の出であり、明治の末期、青木は石炭窯の築造をこの松村に依頼するなど親交があったので、電信で連絡しあって瀬戸製の碍子を青木製として受注に成功したのである。彼の印度滞在が長いのもそのためであった。

 数百屯という大量だったので、日本郵船は長崎に寄港させて印度へ運んでくれた。
瀬戸から貨車で輸送されて来る碍子を有田駅でその荷札の出荷主を青木に改めて長崎から積出したのである。この商談で相当の利益を上げたので、彼は堂々たる製品陳列所を新築している。香蘭社などにも遜色のないものだった。

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