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第十章 大正年代の有田
(三)帝国窯業と柿右衛門焼合資会社
 大正七年四月八日、外尾村(現在の岩屋磁器本社)に資本金五十万円の帝国窯業株式会社が創立された。これは辻勝蔵の次子清が神戸の豪商内田信也を誘致して起業させたのである。当時、欧州大戦後の影響と米価高騰の結果、前年大正六年以来大変な好景気で、諸種の戦争成金が続出した。この内田もその代表的人物である。

 清は専務取締役となり、松村定次の息子清吾は常務取締役としてこの二人で業務を鞅掌(支配すること)した。そして、古市熊太郎が技師長だった。又、応法山にも第二工場を新設した。
 本工場は総坪数七千坪、内建坪五千坪で、二百貫入トロンミル及び二十台のスタンプ機をはじめ、最新の学理を応用したいろいろの設備を整え、天草石を原料として、当時至難とされていた硬質陶器の外国向け食器類を製造した。従業員は大正八年十二月末現在で三百十四人の有田第一で、二位の香蘭社は百八十一人であった。

 しかし、大正十一年には経営不振に陥って社長内田信也は小畑秀吉に譲渡している。それは大正八年の従業員数三百十四人がその翌年の大正九年には二百四十八人に減っていることでもその衰退ぶりがうかがえるのである。

内田はその後代議士になり鉄道大臣にもなっている。

 小畑秀吉は当時柿右衛門焼合資会社の社長であった。取締役には松村清吾の外金ケ江頼四郎、広川真澄、酒井田柿右衛門等が就任し、釣村芳が技師長になっている。そして、対州白土、三石蝋石や本土等を混合して、一種の新硬質陶器を完成して、熊本市の鳥居陶器店を特約店にした。

 大正十三年九月一日に、森峰一が小畑秀吉から帝国窯業会社を買収し、森窯業会社と改称して建築用タイルを製造することになった。彼は元本幸平の窯焼森友次郎の息子で、久しく満州で鉱山事業を経営していたが、故郷に帰って父祖の業を復興したのである。
 そして、昭和三年二月に森峰一は、本県第三区から衆議院議員に当選した。だが、窯業会社は昭和四年、世界的な大恐慌のため、業績不振に陥ったので、又、小畑が買い戻して彼が経営する岡山の明治窯業所の分工場として、筒江の原石等を混用して製陶を続けた。

 この小畑秀吉について肥前陶磁史考は、柿右衛門焼合資会社の項で、大正十四年に会社を設立したとある。だが、有田町史陶芸編の二宮都水についての記述によれば、都水は大正十年に深川製磁から柿右衛門焼合資会社の工場長として引き抜かれ就任したとある。そこで肥前陶磁史考の大正十四年はおかしいと思ったので、法務局で登記簿を調べたところ、柿右衛門焼合資会社の設立年月日は大正十四年ではなく、大正八年四月である。

 肥前陶磁史考の記述とは六年の差があり、大正十一年に小畑が譲り受けた帝国窯業の取締役の中に金ケ江頼四郎と酒井田柿右衛門の名のあるのも理解出来るし、二宮都水のことも首肯出来る。

 以下登記謄本から

 一、商号 柿右衛門焼合資会社
 二、本店 西松浦郡曲川村丁三五二番地
 三、目的 陶磁器製造販売
 四、設立年月日 大正八年四月二十八日
 五、社員名ト出資額
   一金一万円 無限責任 戸畑町 小畑秀吉 
   一金五千円 有限責任 刈田村 林田護
   一金五千円 有限責任 戸畑町 小畑保平
   一金五千円(登録商標権評価額五千円)
   有限責任 曲川村 酒井田柿右衛門
 六、存立ノ時期 存立ノ日ヨリ満五十ケ年

 以下肥前陶磁史考より引用する。

 「大正十四年(八年の誤り)四月福岡県人小畑秀吉は、十二代柿右衛門に対し資金を提供して、二万五千円の柿右衛門焼合資会社を設立し、同山の辺り丸山に洋風の工場を建築して、南川原本邸の工場と共同経営することとなった。(中略)昭和三年十二月柿右衛門は予備陸軍中将堀田正一の後援を得ることになり、合資会社からの退社を申込んで小畑秀吉とは分離することとなった。

 そこでこれまで使用していた角福の商標は、法理上会社の所有権として残ったので、自邸工場だけで製造することになった柿右衛門は『柿右衛門作』の銘を用いることになったのである。」

 柿右衛門窯がどうして小畑秀吉の資金援助を受けなければならなかったか、又、誰がその斡旋をしたかについては、肥前陶磁史考も有田町史も触れていない。合資会社の資本構成を見れば、二万円を小畑秀吉とその縁故者より、五千円を十二代柿右衛門が角福の登録商標の評価額として現物出資をしている。このことからして推量されるのは、柿右衛門窯の経営が資金に乏しく困難に陥ったため、憂慮した或る地元の有力者が小畑に協力を求めて生まれたのがこの会社であろう。又、古老の口伝によれば或る有力者は中野原の金ケ江頼四郎という。
先に記した、帝国窯業を小畑が譲り受けた時の役員の中に柿右衛門と並んで金ケ江の名のあることもこれで理解出来る。

 五千円と評価された角福の商標について、肥前陶磁史考によれば、福は元来中国古陶磁の銘であって我が国でも肥前だけでなく九谷でも用いている。肥前では黒牟田方面に多く殊に福島助五郎などは専ら角福銘だけを用いたという。又、小城の松ケ谷焼にその銘があるのは、五・六代頃の柿右衛門が松ケ谷焼指導のため小城藩主から招聘された時に用いたものと思われる。

 十一代柿右衛門が商標登録の法令が出ると逸早く明治十八年に角福銘を自家の商標として特許登録をしたため、従来この銘を用いていた者は使用出来なくなった。

だが、これに反発して使用を続けた窯焼もあって裁判沙汰にまでなっている。しかし、特許登録の法による柿右衛門の方が強くて、侵害した者は若干の訴訟費用を負担するなどして明治四十年頃漸く解決している。

 謄本には存立の期間を満五十年としてある。昭和四十三年がそれに当たるので、柿右衛門焼合資会社はその時消滅して仁和窯になった。勿論角福の銘はその時点で柿右衛門家に戻っている。

 森峰一から小畑に帰った明治窯業はその後どうなったかと言えば、昭和十二年に岩尾磁器工業が小畑から買収している。岩尾新一氏著「一道の灯」からその辺の事情を見てみよう。
 「現在の本社工場(当時明治窯業又は窯業会社と称した)を買収する事に意を決した。仲介役は今は亡き松村石油店の松村(弥太郎)氏と川崎宝次郎氏であった。所有者はつい先般物故した小畑秀吉氏である。この人は鉱山師(耐火原料の)又、企業家で福岡県苅田の出身、岡山県三石の付近で明治窯業という耐火煉瓦会社を経営して居り、何と言っても異色太っ腹の実業家で当時六十才位か。(中略)この価格は五万四千円だったと記憶する。この金は大阪の岩尾の叔父さんから出して貰って『お前の力で会社式に本式にしっかりやれ』と強く念を押されて借用した。」昭和十二年春といえば、岩屋新一氏が学業を終え家業に専従するようになってから四年目である。

 この岩屋磁器工業の大正年代については、肥前陶磁史考の左の記述から見ることにする。

 「大正十年七月、資本金五万円の岩尾合資会社が創立された。代々大樽で営業していたが、大正八年に当主の芳助が死去したので、弟の卯一が業務担当者になっており、大樽の工場の外に上幸平の有田陶業所を松本祐四郎から買収して改築し、これを第一工場として大樽を第二工場に改めている。
こうして耐酸磁器、碍子及び磁製ローラ等、専ら科学的特許品を製造するに至ったのである。」

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