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第十章 大正年代の有田
(四)深川六助のこと
 大正期の有田に於て、特異な足跡を残したのは前節の小畑秀吉である。だが、彼は有田人ではなく他郷の出身だった。有田人にして明治四十一年から大正十二年まで十五年間、大きな足跡を残したのが深川六助である。その大きな足跡としての陶器市と李参平碑については前節で記述したので、その他のことを有田町史などから見ることにする。

 明治四十一年(一九○八)深川六助は泉山年木谷の自宅を開放して日曜学校を開いた。日曜学校には近所の子供達が二十人ばかり集まり、時には佐賀から外人の宣教師が来てキリストの話を聞かせた。クリスマスにはツリーにカードやゴム毬が吊してあり、帰る時にはそれらの物が皆に配られた。そして、聖歌を歌う時は妻のキヨがオルガンを弾いた。年木谷の日曜学校は深川六助が白川に転居するまで続いた。
 彼は白川の窯焼深川常蔵の次男である。明治二十年一月四日、文部大臣森有礼が白川小学校を巡視した時、六助は校長江越礼太の推薦により選抜生に選ばれて九月六日に上京、森有礼の書生となって住み込み、美術学校へ通学したが、二十二年二月十一日に森有礼が刺客に襲われて暗殺される事件があり、彼はやむを得ず叔父の田代市郎治を頼って横浜の田代商店で働いた。横浜時代に彼は望月キヨと結婚した。キヨは明治二十八年二月十七日郷里の会津若松市の教会で洗礼を受け、それから横浜に出て六助と知り合い結婚した。結婚後六助も洗礼を受けてキリスト教に入信したが、病気のため四十一年に横浜を去って有田に帰り泉山年木谷に住んだ。明治四十二年には岩尾卯一の好意により、有田町大樽一一一七番地の岩尾宅に於て、佐世保から牧師を招いて集会を開いている。

大正二年(一九一三)九月、父常蔵の死去により白川に移って家業を継いだ。

 彼は有田に帰る前の明治三十七年には農商務省嘱託の視察員として米国セントルイスの万博に出張している。帰郷後病勢が快方に向かったので、同志等と「有田之友」という小誌を発行した。そして、有田青年会の会長になって、陶器市協賛を指導している。大正六年には町会議員、八年には郡会議員、十年には県会議員に当選している。

 その間石場事務長になっている。そして、一大英断的計画を立て、組合員の協賛を求めて、大正九年から十二年にかけて、百八十間(三百二十米)の放水トンネルと崩壊の排除に約十万円を投下する大工事を起こしている。その頃の石場管理者は西松浦郡長樫田三郎、副管理者は有田町長深川栄左衛門であった。
 又従兄弟に当たる栄左衛門の懇請によって香蘭社の顧問になり深川家の家政や分家との融和などにも貢献している。大正九年には深川栄左衛門が理事長である有田陶磁器信用購買販売組合の監事になっている。

 その頃、有田小学校の一部を借用して開設されていた幼児保育所を旧役場跡地に移転して必要な施設と器材を整備して幼稚園として大正八年に認可を受けて彼は園長を兼任した。

 県会議員としては、県立窯業試験場を塩田に設立するという議案に真っ向から反対して有田優先の考え方を不動のものにした。又、労使間の紛争を調停すること、或は未然に防ぐ方策などについて、それに対する施策を強く県に要請している。だが、大正十二年三月五日、県議現職にして死去した。

行年五十二才であった。昭和三十八年には、陶山神社境内に胸像碑が建てられた。碑銘は鍋島直紹の撰文である。

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