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第十章 大正年代の有田
(五)大正時代の有田陶業界
 本節は主に有田町史通史編から引用する。第一次世界大戦が勃発した当初は、欧米向けの輸出が殆ど途絶え、又、内地向け製品も米価の下落で不振となったが、大正五年に入るとアメリカ向けの輸出が少しずつ動き始め、又、南洋・印度・中国方面にゴム碗・コーヒー碗そのほか日用品の新販路が開け、陶業界は次第に活気を取り戻した。

 このような輸出陶磁器好況の波に乗って、従来内地物を専門にしていた生産地も輸出物の生産に転じた。愛知県は大正五年には輸出物八分内地物二分、岐阜県は輸出物七分内地物三分の割合となった。肥前物も又輸出物に全力を注ぐようになった。西松浦郡に於ては大正四年にくらべて五年の生産高は十五パーセント以上の増加となり、藤津郡に於ては南洋方面へ輸出するゴム碗及び北海道向けの徳利など売れ行きが活発となり、これ又前年に比べて三十パーセントも増加した。
 大正六年の佐賀県全体の陶磁器産業を見ると、大正二年の生産高は百七十万円以上であったが、大戦勃発の大正三年から四年に於ては百二十万円に減少した。しかし、南洋・印度・中国方面に新しく販路が開けたこと、アメリカに対する輸出が回復してきたこと、米価が高騰して一般の購買力が増大したことなど好条件が重なって、大正六年六月における最近一年間の海外輸出額は六十万円以上に上り、総生産額の三十パーセント以上を占めている。

 このように好景気となったので、陶磁器界では職人の不足が深刻化しつつあった。なお、有田の陶業家は一軒窯を新設して窯入れ回数を増加し、この好況に対処する設備を整えつつあった。特に注目すべきことは工業用品や碍子の需要が増大して、この部門での生産が伸びたことである。

 しかしながら、このような好況の裏には輸送力不足という問題があり、神戸・横浜・長崎各港とも貨物が停滞しているので、商館では注文を控える傾向が見られるようになった。

 大正七年には、我が国の陶磁器輸出額は更に増加し、供給不足の状態となった。一方石炭や工賃及び運賃なども高騰したので、陶磁器の市価も高騰し、食器皿一ダース平均一円二十銭、コーヒー碗一ダースー円六十銭〜一円七十銭となり、大戦前と比較すると平均六十〜七十パーセントの高値となった。

 大正八年に第一次大戦が終り、欧州の経済界が次第に回復するにつれて、陶磁器業界にも不況の波がおしよせてきた。欧米向けの輸出が途絶えると同時に内地向けも不振に陥り、在庫の量が増大した。従って価格も暴落し、好況の時と比べると実に四十パーセント以上の大暴落となった。
 それでも大正三年頃の戦前の相場と比べると未だ二倍の高値であったが、有田では十年一月頃から工場の大整理を行ない、職工賃金の値下げを断行した。職工の賃金は平均して細工人一日二円五十銭、画工二円、雑役天一円五十銭となった。

 この頃、銅版口切り「いげ皿」の人気が出て中流以下の家庭に歓迎された。又、都会の家庭向けの贈答品として茶器で十五円、菓子器九円、花瓶十一円から十二円のものがよく売れたが、全般的には売れ行き不振は免れなかった。大正十四年になると、いくらか有田の陶業界にも明るい光が見えはじめ、十五年には前年をいくらか上回る状態になった。

 大正年代に二つの業界紙、即ち肥前陶報と松浦陶時報とが生まれた。以下肥前陶磁史考より

 「大正十年十一月十五日、肥前陶報第一号が発刊された。本紙は当時の青年商人である赤絵町の庄村吉郎、本幸平の松本台太郎、同松本栄治、大樽の浦田林一、岩谷川内の馬場森作等によって発起されて大宅経三が主筆になり、古賀勇が事務を担当、庄村吉郎が発行人になって斡旋していたが、同十二年末より上幸平の松本静二によって継承され、彼が発行人になった。

 大正十三年五月二十五日、平林専一が松浦陶時報を発刊した。
彼は先代伊平の長男で、孤嘯又は紅渓と号し、久しく上海に移住していたが、今度故郷に帰って縦横の筆を揮うことになったのである。」

 前者は商人を対象とする情報紙であって、産地の相場などを全国の市場に報ずるなど地味な経営方針であった。後者は縦横有田という論評を主とする別紙を発行してやや派手な傾向があり、政治的な面が強かった。

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