Home Back 50/58 Next

第十一章 昭和初期の有田
(二)産地流通の主導権有田商人へ移る
 待望久しかった第一窯業試験場が建設中の昭和四年の肥前業界は昭和恐慌の影響によって不振を極めていた。昭和五年三月十日の佐賀新聞は次の通り報道している。

 「昨四年度の陶磁器成績(西松浦郁陶磁器同業組合)

 西松浦郡陶磁器同業組合の昭和四年度に於ける成績を見るに組合員二百三十四名で先づ製造高に於て内地向のもの百五十五万四千三百七十三円、輸出向のもの四十万三千四百十八円で前年に比し内地向に於て八万六千四百六十四円、輸出向に於て七万一千五百六十五円合わせて十五万八千二十四円を減じ、又、販売高に於ては内地向のもの二百二十万三千五百八十三円、輸出向のもの五十七万四千三百九十六円で前年に比し内地向に於て三十一万四百八十六円、
輸出向に於て八万五千三百八円合せて四十一万五千七百九十四円も滅じているがこれも不景気の影響である。」

 この影響の具体的な表われとして、昭和五年に有田陶磁器信用購買販売組合が解散している。以下重役の資材提供と題している肥前陶磁史考の記事を引用する。

 「昭和五年七月、有田陶磁器信用購買販売組合が、経営不振のため解散することになった。この組合事業も後年には商人の代金不払いや破産者が出たり、或は窯焼への貸金の返済が停滞するなどが相次いだ。その上事務員の不正消費などから遂に資金借入れが増大して、再度の整理も効果無く債務だけが増加するので、断然解散することに決した。

そして、その欠損補填のため、重役が私財を提供することになり、組合長深川栄左衛門は四万二千五百円を提供し、次に山口佐雄と竹重周次は二万四千五百円宛を、久富二六と山本頼一は七千五百円宛を弁済したのである。」

 この組合は前述した通り明治二十七年に設立された有田磁器合資会社が産業組合法によって、改組されたもので有田町全窯焼によって成り、入札販売の始まりでもあった。だが、前年十二月六日に西松浦郡陶磁器工業組合が設立され、窯焼集団としての存在価値が失われたことも解散の一つの理由でもあった。

 ちなみに、工業組合長には本幸平深川栄左衛門、理事には外尾山青木甚一郎、広瀬山今泉幸次郎、同じく森林太、上幸平岩尾卯一、同じく古賀米助等が就任し、組合員百十六名である。
 丸磁会社、後では丸磁組合と称した窯焼主導のこの入札機関は三十六年目にして消滅したので、有田町には商人主導の肥前陶磁器株式会社、伊万里町には商工連合の伊万里陶磁器株式会社、有田村には同村窯焼七人から成る任意団体七福会とが残ったのである。青木甚一郎を会長として、藤本巻助、梶原謙一郎、梶原菊太郎等の七福会はその頃では休眠状態に陥っていた。

 従って産地流通の主流である入札取引は事実上肥前陶磁器株式会社(以下肥前会社と略称す)と伊万里陶磁器株式会社の二社によっていた。伊万里会社については第九章で述べたので、以下肥前会社について肥前陶磁史考から引用しながら記する。

 大正八年十月、肥前会社が有田町に設立された。

従来は有力な一部の製造家を除く他、郡内の生産品はすべて入札によって卸商に販売され有田町の製品は丸磁組合に、有田町以外の製品は伊万里会社に委託されていたのを、有田町の卸商と一部の窯焼はこれを不便だとしてこの会社の設立となったのである。

 大正十年に肥前会社は、その営業の目的が同じである長崎県の波佐見陶磁器株式会社を合併し、佐賀長崎両県の製品を、毎月二回ずつ交互に入札販売をすることになった。

 この波佐見の入札会社については波佐見町史下巻から見ることにする。

 「大正七年一月十三日『長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社』が創立された。上・下面波佐見と折尾瀬の三ケ村の陶磁器製造業者百名が出資し、資本金五万円で、事務所を井石郷に置いた。
社長は長野常道(宮村の酒醸造、当時長崎県会議長)専務取締役今里友次郎(波佐見銀行頭取)支配人松添亀太郎、それに三ケ村から役員が出た。」

 合併後の肥前会社は資本金十五万円(払込済十一万二千五百円)本店を有田町に、支店を上波佐見村井石郷に置いた。役員は代表取締役二名とし松本静二と今里友次郎、松本が社長になった。取締役は有田五名、波佐見四名。監査役は有田四名、波佐見三名で入札会は本支店共に月二回。

 大正時代は順調に進んだ。だが、昭和に入ると全国的な恐慌の影響によって経営は極めて困難で度々危機に逢着した。だが、大正期以来並々強力になった有田商人に支えられて凌いできた。

しかし、昭和八年には松本静二が社長として常勤して四万五千円の減資を断行、累積赤字と不良債権を一掃して立ち直ったのである。

 明治三十年頃の鉄道開通後は、それまで唯一の輸送手段だった船便に頼る必要がなくなり、伊万里商人の存在条件が薄れたので、有田商人の力が逆に増大したのである。その頃まで有田には市外人と称するガサ商人と錦物を扱う商人だけしかいなかったのが、昭和十年前後には、卸商は有田四十二名、伊万里六名、藤津郡四名、上下波佐見十七名、折尾瀬と早岐七名になっている。明治三年に四十余名いた伊万里は僅か六名に減少している。勿論伊万里から有田に移住した商人は大正から昭和にかけて十名に近い。
 有田での商人の増加はそれだけでなく、従来の市外人から成長した者、窯焼や赤絵屋から転業した者、又、伊万里への運搬が皆無になったため、失業した荷担ぎ人(有田の方言でにいにやあという運搬夫)等の転業などで急速に増加したのである。

 更に商人の力を太らせた最大の要因は伊万里商人から継承した窯焼との取引方法である。それは六金勘定と称して日陶連共販になった昭和十五年頃まで続いている。江戸期の有田窯焼の焼成歩留まりは、上と称する一等品六十%、ツラと称する二等品が三十%、ガサと称する三等品が十%であり、二等品の価値を七十%、三等品を五十%とすれば全体の価値は八十六%になる。これが三段選別である。

 この選別は元来選方荷師と称して窯焼と商人から公認された独立した専門の職人が当って公正を期したものであった。この職人達も集散地が有田に移行するにつれて伊万里から移住して来た。この職には荷造りの重労働に堪えなくなった荷師が転向していた。だが、明治以降は大手の卸商に専属するようになって自然に権威を喪失するのである。

 選方荷師を雇えない二流三流の商人では店員や店主自身が選別するようになった。そして、商人の力が強くなるにつれて八合六勺(八十六%)が一等品の建値のパーセンテージになって、二等品は建値の六十%、三等品は窯焼に返品するという慣行になった。狡滑な商人は実際の選別を帳簿上だけ改竄して支払いをごまかす傾向さえ生じたのである。
 又、その上に選別には見落としもあるとして全体から三%を差し引く三分引の慣行も何時の間にか定着したのである。そして、これらの慣行が、大正から昭和にかけて商工間の紛争の中心課題として争われて共販制になるまで続いている。

 その間東京を市場とする有田の仲買商人が特に急成長した理由としては、有田の火鉢が高級志向の東京方面で歓迎されたため、火鉢専門の窯焼が増えた。だが、火鉢の需要期は一年の三分の一だから、三分の二に当たる不需要期中操業を続けるのには相当の資金を要する。彼等が所属する丸磁組合にはその間を融通する資金力もなく、不需要期中の製品を格納する倉庫もない。勢い有力な仲買商人に依存しなければならなかった。不需要期に仲買に依存しないで丸磁組合の入札にかけると二束三文の安値になる。

従って窯焼達は資力と倉庫を持つ有力な仲買との間に夫々年間契約を結んだのである。

 ただ需要期になれば仲買と談合の上入札にかけてその年の相場を公開の場で決めるのが慣行になっていた。例えば年間契約値一円二十銭の尺五の瓶掛を最需要期の入札にかける。
東京向以外の商人も時期になれば火鉢が欲しい。従って火鉢の相場は高騰する。即ち、仲買が予期した相場まで吊り上がる。仮にそれが一円五十銭まで上がれば仲買の倉庫の品も一様に一円五十銭になり、三十銭の利鞘が自ら生ずる仕組であった。このような経過から産地流通の主導権は有田商人に移って行ったのである。

Home Back 50/58 Next
Ads by TOK2