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第十一章 昭和初期の有田
(三)昭和初期の特筆すべき事項
 大正十五年には、従来その使用はタブーとされていた天草石視察を西松浦郡陶磁器同業組合が正式に実行している。泉山石から天草石への転換を阻止することは出来なくなったからである。その趨勢は昭和に入って益々盛んになり、昭和初期の泉山石の使用比率は左の通り低下している。

 昭和三年 三十一.八%
 昭和四年 二十一.四%
 昭和五年 十六.○%

 数年後には十%以下に低落し、僅かに工業用品やタイルなどに限られ一般の磁器には殆ど顧みられなくなった。そして、昭和六年には十三人の石場の肝煎違は父祖伝来の火薬庫や相撲場用品などの物件を組合に譲って廃業した。
この衰運を何とか挽回しようと石場組合では昭和七年には郡内の粘土業者は泉山石を三割以上調合するように粘土業者と窯焼に交渉した。だが、天草石へ傾斜する時勢の流れは遂に阻止することは出来なかった。

 昭和になって県は石炭窯築造奨励のため、一窯平均四百円を奨励金として補助する規定を公布した。その頃既に西松浦郡の窯焼七十一戸の内二十%は石炭窯に転換していたが、この補助によって昭和初期には殆どが石炭窯に転換した。又、有田町では昭和七年に町営貸窯使用条例を公布して、一号窯は同年九月二号窯は九年に竣工している。勿論これらの窯は石炭窯である。

 大正十三年に名古屋の日本陶器会社が創始した赤絵用鋼鉄電気窯は全国に普及し、有田でも香蘭社と深川製磁が試みた。

彩釉の光沢は漆蒔のように焼き上がって薪焼成では半透明になる欠陥を改良した。だが、鋼鉄壁の窯一個を据え付けるのに千円以上の設備費を要するので、有田では赤絵町の庄村吉郎が薪窯と同じに粘土壁による方法を研究して好結果を得た。そこでたちまち普及を見たのである。大正時代に始まったゴム判印画法が盛んになり、赤絵付には勿論、染付にまで応用されるようになったのも昭和初頭のことである。

 昭和四年には最初の普通選挙が有田町と村とに行なわれた。有田町では今までの有権者百二十名だったのが十倍に増えて千二百名以上になった。有田町十八名、有田村十二名の定員である。この選挙の頃は金融恐慌による資本主義の危機的様相が見られて、有田業界も不況が深刻なため、労働者は否応もない賃下げに直面していた。
そして、荷師組合が結成され、有田町では上幸平の辻三郎による社会民衆党支部が発足した。又、日本労農党の政談演説会も開催された。この選挙には無産党から町二名、村一名が立候補したが、いづれも最下位で落選した。

 昭和二年には、四ケ年の継続事業として、有田町本道路の改装工事が始まった。工事に着手したものの不況緊縮のため、一時中止し六年末に漸く成就したが、その後アスファルト舗装を施して昭和七年に完成したのである。これは前町長深川忠次、現町長江越米次郎、助役井手虎治、収入役岸川英一郎を始め町役場吏員らの尽力によるものであった。

 長さ八百三十間(一六○○米)幅員五間(九.五米)橋梁三ケ所、舗装面積三千五百五十坪、総工費二十八万円、内地元有田町より七万円、残額二十一万円は国費と県費の折半の補助である。

 大正十五年に昇格した有田警察署が昭和五年五月に本幸平(現在の派出所)に新築落成した。町が四千五百円、村が千円寄付して入る。

 当時不況に喘ぐ佐賀県特産の有田焼を挽回するため、県が主催して昭和五年から六年にかけて県庁と有田とで数回に亙って窯業振興相談会を開催している。特に半井知事が熱心であった。
 これより先、昭和三年九月大阪三越での有田焼展覧会が予想以上の成績を挙げたので、翌四年一月には同業組合は新たに有田焼出品協会を設立して積極的に各地で宣伝即売会を開催したり、各博覧会や共進会等への出品の斡旋をした。この年早くも朝鮮博覧会に出品し、北海道では有田焼宣伝会を開催した。翌五年には満州大連市で宣伝即売会を開催、満州事変後の昭和八年には大連事務所を開設して見本を陳列宣伝に努めた。

 昭和六年十月には有田焼見本市協会を発足させて全国初めての陶磁器見本市を開催した。会期は二日間で、第一会場は有田小学校で商工一体の見本を陳列し、第二会場は仲買各自の店舗とした。

招待客は全国に亙って北海道から台湾、朝鮮、満州に至るまでの主なる陶磁器卸商約五十名であった。売り上げは十三万円で、会後知事も出席して市場側の忌憚ない意見を聞いた。  第三回見本市は昭和八年九月、三日間開催され、参加者は西松浦藤津両郡の業者四十余名で招待した陶器商は三百名を越えた。そして、招待客には汽車賃と宿泊料をサービスした。だが、この見本市が景気回復に寄与したことは言うまでもなかったのである。

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