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第十一章 昭和初期の有田
(四)磁器帯止と二宮都水
 昭和の初期から新製品として現われた磁器製帯止が段々に人気を呼んで香蘭社、深川製磁をはじめとして帯止製造が盛んになった。その間に先発メーカーである二宮都水が帯止裏面に紐を通し国定させる装置を工夫考案した。それが八年一月十五日、公告一一八類四帯止実用新案として特許されたのである。

 当然二宮は同業者に対してロイヤルティを要求した。だが、同業者は一斉に反撥し問題は同業組合に持ち込まれたのである。ところがその紛争の最中に東京や大阪の関係筋から有田焼の帯止は特許侵害ではないかと、有田町と同業組合とに抗議的な照会があって、有田業界は内輪もめの段ではないと色めき立った。

 早速、東京の県物産宣伝即売会に出張中の同業組合の辛島書記と有田商工会の庄村吉郎は特許局に出頭して調査した結果、類似品の製造差支えないということになった。
大阪の朝山亮太郎が珊瑚、鼈甲などに紐通し専売特許を四年以前に受けその一部を他に譲渡したことは事実であるが、品種の異なる有田の磁器帯止がこれらを脅威する筋合いはなく、悪ブローカーの為にする宣伝と分かった。そして、朝山が特許を得た以前に有田では製造していた事実も判明したのである。

 思いがけなく産地を襲った外憂は解決し、都水の特許権は生き返った。だが、その間暫く鳴りを潜めていた内輪もめが再燃した。そして、同業組合に持ち込まれたのである。

 同業組合では副長の松本静二がこの解決の衝に当たった。その結果、二宮都水は帯止の専売権を同業組合に譲渡する。組合は特許番号のレッテルを製造業者に交付して一個に付き三銭を徴収し、これを二宮に支払うものとする。但しレッテル印刷代などの費用は差し引くとした。

一年余に亙って有田を震動させた帯止間題はここに解決したのである。

 この二宮都水については、有田町史から見ることにする。本名は錠太郎、明治十三年、愛知県瀬戸に生まれた。

 京都の陶器会社で貿易品の彫刻に従事し、その後多治見の徒弟学校の指導員をしながら、名古屋の米国商館の彫刻主任をしていた実父の二宮竜雲から彫刻を学んだ。明治三十三年、東京浅草の井上良斉の内弟子となり、一方美術学校教師の海野美成に師事して彫刻の技術をみがき、都水と号した。明治四十一年から京都の五条坂で独立して、貿易品の製造を始めている。

同四十五年三十三才の時有田に移り、香蘭社に入社して彫刻部を担当した。その三ケ月後、深川製磁に技術監督として入社し、十年間美術品の彫刻技術を指導した。
 大正十年、柿右衛門焼合資会社から工場長としてスカウトされた。その後大正十二年は県から献上する皇太子ご成婚祝の菓子鉢を、昭和三年の御大典祝賀には献上品として白地きりんの置物を柿右衛門と共同で製作している。

 昭和三年独立自営して美術置物の彫刻をはじめ、その傍ら帯止の製作に着手した。そして、有田業界にフームを巻き起こした。そのことについて都水の談話は次の通りである。

 「吉田弦二郎(佐賀県出身の文学者)夫人にプレゼントした帯止が『えん』で有田焼の帯止が全国に流行した。」

 この帯止の技法が戦後有田のミクロス発展の要因になったことを思えば都水の功績は大きい。

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